ハマム

【日記/40】入浴という概念

本日の注意事項としては、あまり綺麗ではない話をするので、食事前後の方につきましては読むのをお控えいただきたいというか、自己判断でお願いしますということである。あと、Twitterなどではもう公開しているのだけど、明日か明後日のどこかでトークイベントのお知らせをブログに書くので、お見知りおきくださいませということである。

というわけで本題なのだけど、私は、基本的に入浴というものは、毎日行なわなければいけないものだと思っていた。病気や怪我や怠惰や多忙やその他諸々で入浴が困難な場合でも、せめて1週間に1回、いや1ヶ月に1回は入浴しないと死ぬものだと思っていた。「死ぬ」というのは「社会的に死ぬ」というニュアンスもあるのだけど、それよりもまじな話、「感染症(?)とかになって命を落とす」という意味でのガチの死を連想していた。

しかし、最近ようやくわかったこととして結論をいうと、入浴しなくても、人は死なない。

どれくらいの期間死なないでいられるかというと、たとえばミャンマーにあるワ州というところに住んでいる人たちは、入浴というのは男も女も結婚式の前日くらいにしか行なわないという。つまり、20年間くらい入浴しなくても死なない、というか一生に一度も風呂に入らなくたって死なないのである。私は、最低でも半年に1回は入浴しないと死ぬと思っていたので、これはちょっとびっくりしてしまった。あと、この前テレビ番組で見たけど、アフリカのヒンバ族という民族は風呂に入る習慣がないので、こちらの方々は本当にまさしく一生に一度も入浴しないらしい。風呂に入らなくても、人は死なないのである。

そこで、結局本日の私は何がいいたいのかというと、「だから私は風呂に入りません」ということではもちろんない。理由は2つあって、とりあえず命を落とすという意味での「死ぬ」はないということはわかったものの、現状の日本社会だとやはり入浴を長期間行なわないと社会的に死ぬと思うので、私は社会的に死にたくないので入浴は行なう。

あと、前述したワ州やヒンバ族の方々とは、日本人である私はたぶん体の構造がちがうと思うので、私の場合はやはり半年以上風呂に入らなかったりすると感染症とかになって命を落とすんじゃないかと思うのだ。ワ州の人たちは1年に2回くらいしか肉を食べず、他の日は毎日、菜っ葉とお粥みたいなものを食べているらしい。完全な素人推測だけれど、たぶん肉食を極限まで抑える食生活を何代にもわたって続けていると、入浴を長期間行なわなくても不潔にならないように体の構造が最適化されるのではないかと思った。アフリカのヒンバ族にいたっては、こちらの方々はバターを大量消費するらしいのでめっちゃ動物性脂肪を摂取しているけど、体に赤い粉をつける習慣があるらしいので、この粉が体を清潔に保つ入浴に代わる役割を果たしているのではないかと思った。私は現状、肉食を1年に数回以下に抑える食生活に切り替えることも、赤い粉をまぶして外に出るのも難しいので、やはり風呂に入らざるを得ないという結論になる。

さて、ここでもう1つ興味深い話がある。『においの歴史──嗅覚と社会的想像力』という本で、5千円くらいする高い本なので私は読んだことない(いつか読もうと思ってはいる)のだけど、大学のとき先生がこの本を「すげー面白い」といっていた。

この本(をすげー面白いといっていた先生)によると、「悪臭」とは近代以降になって「発見」されたものなのだという。その理由はというと、近代化・工業化にともなって、下水道の整備や公衆衛生という概念が生まれたからである。昔の人は貴族王族レベルでも風呂になんかロクに入らず香水をシューシューやって臭いをごまかしていたというのは有名な話だけど、つまりこの時代の人は、「悪臭」を感知する社会規範や概念を持っていなかったのだろう。私はこういう話がすげー好きなのだけど、「悪臭」というのは絶対的な存在としてあるのではなく、「悪臭」を発見した人間同士の間で共有される一種の概念なのである。「はじめに言葉ありき」とはよくいったもので、すべてのことは最初に言葉があり、言葉によって規定されたものを我々は初めて「ある」と認識するのである。

ワ州やヒンバ族の人々がなぜ風呂に入る習慣を持っていないのかというと、それは「(貧困などの理由で)入れなかった」のではなく、「入る必要がなかった」というのがやはり妥当なのだろう。それはつまり、入浴や公衆衛生という概念を通らなくても成立する社会を彼らは作っているのである。逆にいうと、「風呂に入りたいのに入れない」という状況で生きているスラム街の人とかに対しては、最大限の援助をし衛生的な社会生活が営めるよう整備していかねばならない。しかし、「入る必要がない」という社会規範のなかで生きている人々にとっては、やはり入浴などというものは必要ないのである。

さらに、もう1つ話をしよう。これは前にTwitterで呟いたこともあるのだけど、マサイ族の男性にアダルトビデオを見せると、興奮するどころか「気持ちわるい」「気味が悪い」といわれ、かなり本気で引かれるらしい。

このことから何がわかるかというと、つまりエロという人間の根源的な欲求に関わるものでも、それは概念であり一種の社会的記号に過ぎないということである。我々は特定の社会のなかで「A=エロ」あるいは「B=エロ」という記号を生育過程において入力され、成人後はそのAやBという記号に反応しているだけなのだ。そして、もしAという記号を用いると男女あるいは性的マイノリティの人々との間でエラーが出ると判明した場合、我々にできることはAという記号を書き換えCに変換することである。もちろん、社会は1人や数人で回しているわけではなく、無数の集合体によって成り立っているものなので、「明日から変えます!」というわけにはいかない。しかし、10年20年30年と時間を費やせば、記号の書き換えは可能だ。

私が、残念ながらなかなか意見が合いませんね〜と思うのは、AやBという記号を「永久不変のもの」と考えている人たちである。そして、「変えられないんだから我慢しよう(我慢しろ)」という人たちである。もちろん、これは何も入浴や悪臭やエロに関してだけではない。社会を構成するあらゆる要素は記号であり、書き換えが可能だ。

で、で、で、最後はちょっと熱っぽくなってしまったけど、単純に、私はこの手の話が大好きで面白くてしかたないのである。だってね〜、もうちょう面白い。私の、人々の、小さな小さな「絶対」なんて、何度でもガラガラに崩れてしまえばいいと思う。

「絶対」は、絶対にない。


شكرا لك!