【日記/91】私の不安シリーズ

「自分はまわりの人間とはちょっとちがうのではないか?」と感じると、多かれ少なかれ人は不安になる。もちろん思考の訓練によってその不安を減じることは可能であるが、もともと人間は集団による狩猟採集生活によって命をつないできた動物なので、群れの中で異分子になることを潜在的におそれている。それは本能のようなものと不可分なので、その性質を極端に忌み嫌う必要はない(と、私は思う)。

ところで、これまで私はnoteの中で、たくさんの自分の「不安」を公開してきた……と思ったら2記事しか該当しそうなものがなかったが、しかしそれはそれとして、「不安」を公開してきた。

【日記/34】事前に予告している人を見るとぞわぞわしてしまう病気
【日記/90】アクセントがいつも不安

今回はこれらに付け加えて、新たな私の不安を公開しようと思う。第3弾は、「人の美醜がわからなくて不安」である。

故雨宮まみさんの『東京を生きる』というエッセイがあって、私はこのエッセイについて「1ミリも共感できなかった」とブログに感想を書いたのだが、実は唯一、「超わかる」と思った箇所がある。それが、『退屈』という章の中にあった、「美しいということを理解するのが人よりも遅かった」というエピソードだ。遅かったというか、私の場合は今もなお、美しいということ、人の美醜を判断しかねている。つまり、未だに人の美醜を私はあまりよくわかっていない。

たとえば幼い頃の雨宮さんは、両親や友人が芸能人などを見て、その顔を「かわいい」と評価するとき、戸惑う。評価されたその人物が「かわいい」のか、「かわいくない」のか、自分は一瞬で判断できないというのだ。なんとなく顔が整っているらしいことはわかるが、それが「かわいい」のかどうかわからない。まわりの人間が「かわいい」「かわいい」と散々評価しているのを聞いて、学習して、ようやく「あ、この人は『かわいい』んだ」と理解する。私もまったく同じような経験があるので、このエピソードを読んだときは「ほー」と思った。

美醜の判断が一瞬でできないのは何も女性に対してだけではなく、男性に対しても同じで(というか私の場合は男性のほうが難しく)、「イケメン」を一瞬で判断できない。まわりの人間が「イケメン」「イケメン」と散々評価しているのを聞いて、学習して、ようやく「あ、この人は『イケメン』なんだ」と理解している。そして、個々の「かわいい」や「イケメン」を学習している間は、いつも「どうしてみんな一瞬で『かわいい』と『イケメン』がわかるの?」と不安な気持ちでいっぱいになる。

そんな私が唯一、これまでの生涯で、一瞬で美醜を判断できた人物がいる。

それが今付き合っている彼氏なのだが、この人物においては初めて顔を合わせたその瞬間に、「わー、『イケメン』だ!」と判断することができた。顔と体型がすごく好きだったので、付き合うときに「あなたの顔と体型が好きです。それ以外のことはよく知らないのですが、顔と体型が好きです」と正直に言った。もちろん、相手はドン引きしていた。

私は自分の「イケメン」判断を疑わなかったので、この人物と付き合うことになったとき、「すごくイケメンの彼氏ができた」と友人に言いふらした。友人たちは「ホントか?」と首を傾げていたようだったが、私がとても喜んでいたので、余計なことは言うまいと思ったのだろう。穏やかに「じゃあ今度写真を見せてね」と言う子が大半だった。

そんな経緯で後日付き合っている人物の写真を友人たちに見せると、みんなが苦笑いしている。というか、「優しそうな人だね(笑)」とみんな失笑気味である。ぶっこみ隊長のような役割を担っているある友人においては、「つーか、言っていい? 言っていい? ファッションが微妙〜」とまで言われた。ひどい。ファッションについては何も言及していない。

このことを後日彼氏に、「みんなにバカにされた」と話すと、「バカにされたのはあなたじゃない。俺だ」とごもっともなことを言われた。そして、「あんたが無駄にハードルをあげるから俺がかかなくていい恥をかいただろうが」とめちゃくちゃ怒られた。こちらもごもっともである。以来私はいたく反省し、自分の彼氏を「イケメン」と言いふらすことと、安易にその人物の写真を知り合いに見せることをやめようと思うようになった。

あー、私の「イケメン」とみんなの「イケメン」はちがうんだな。この一件のため、私はますます自分の美醜判断において自信をなくしてしまった。「かわいい」と言われているモデルや女優はみんな同じ顔に見えるし、「イケメン」と言われている俳優や歌手よりも私の彼氏のほうが整った顔立ちをしていると思う。私にも一応、男に対しても女に対しても「好きな顔」というのはあるのだが、その私の「好きな顔」は、世間で一般にいわれる「かわいい」「イケメン」とはどうもズレているらしい。   

だから実は、私は整形(をする人)に異常な興味がある。その人の中で、美醜の基準がどのように形成されているのか知りたくなってしまうのだ。整形を繰り返すことで「美」から徐々に距離ができていき、グロテスクな様相を呈してしまう人がいるが、彼らもまた私と同じように、美の基準がズレているのだろうか。美醜において、何か統一的な基準というものはあるのだろうか。あるいはそれは貨幣のようなもので、今はドルが強いとかユーロが強いとか、円安とか円高とか、そういう類のものなのだろうか。私以外のみんなは、毎日どこかで秘密の為替市場をチェックしているのだろうか。私だけが、為替市場から締め出されているのだろうか。とりあえず今、財布の中にいくらかの円が入っているけれど、これがはたして海外でどれくらいの価値を持つのかさっぱりわからない。私にとって、美醜とは実に奇妙なものだ。

しかし何にせよ、私の恋人は整った顔立ちをしている(ように私には見える)。ファッションも決して微妙ではない。会ったときに、「それ新しい靴? センスいいねおしゃれだね似合うね」と私が褒めると、「これ3年前に買ったやつで、あなたの前でもう20回くらい履いてる」と彼は言う。ほー。


人の顔も、服も小物も、私は細かいことはよくわからないらしいのだった。だからそういうものに触れる際、私はいつも不安なのだ。

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チェコ好き

旅と文学について書くブロガー・ライター・書評家。 ブログ:http://aniram-czech.hatenablog.com/ AMでも連載しています:https://am-our.com/author/103/article

日記

2015年11月から2017年7月までの日記です。100記事いっぱいになったので以後更新されません。
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