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【日記/84】自分を魅力的に見せる方法を知っているか

少し前にネットで話題になり、渋谷の西武で写真展をやったりもしていたので知っている人も多いと思うが、サプールというコンゴのおしゃれ集団みたいなやつがいる。内戦の絶えない貧しい国であるコンゴで、彼らは月収の何倍もする高級スーツを身にまとい、命がけでおしゃれをして、平和を訴えている。

(C)CHANO

彼らの特徴の一つとして、原色の色鮮やかなスーツが、見る者の目を引く。

渋谷西武の写真展に行ってみたときに、この人たちは、きっとわかっているのだろうと思った。何をかというと、その黒い肌をもっとも美しく引き立てるのが、赤や黄色や緑や紫という派手な原色であり、自分たちが世界でもっともカッコよく、この色のスーツを着こなせるのだということを、だ。

(C)CHANO

同じことを黄色い肌の日本人や韓国人、あるいは白い肌の欧米人がやっても、おそらくちょっと滑稽な成金みたいにしかならない。このスーツを最もカッコよく着こなせるのは、黒い肌を持ったアフリカの彼らである。サプールがカッコいいのは、自分たちの美しさを理解していて、しかもそれを最大限に引き出す方法を知っているからだろう。カッコいい人は、あるいはカッコよく見せるのが上手い人は、自分が何たるかをよく知っているのである。

ところかわって、私が昨年旅したバリ島の話だが、インドネシアの人々も肌が黒い。そして、バリ島やロンボク島のヒンドゥー教のお寺では、そんな彼らがなんとも色鮮やかな衣服を身につけて、熱心に祈りを捧げている。神様の前にお供えする花も、ショッキングピンクだったり紫だったり黄色だったりと、見ていてまったく飽きない。

彼らもまた、伝統的に知っていたのではないかと思う。黒い肌を持つ自分たちをもっとも美しく引き立て、神聖な気持ちにさせるのが、そうした色鮮やかな原色であることを。バリ島の寺院は、鮮やかな衣服を身につけて祈る人と共にあって、初めて完成される気がする。

サプールやバリ島の人々を見ていると、肌が黒くてカッコいいなあ、羨ましいなあ、私も原色を着てみたいなあと素直に思う。黄色い肌の私には、きっと似合わないから、やらないけど。

美しさやカッコよさには、何か世界の統一的な基準があるわけではないのだ。

我々の文化圏では白い肌であることが持て囃されるが、そのなまっちろい肌が弱々しくダサく見える場所だってある。背が高いのがカッコいいわけでも、五体満足であることが健康なわけでも、お金をかけた服が素敵なわけでもない。

(※バリでは、観光客の白い肌はちょっとダサい。そして現地の人の黒い肌は、半端なくカッコいい。)

しかし、自分の特徴を正しく把握するというのは難しい。そして把握できたとして、それをコンプレックスなく正面から受け止めるということも難しい。

「黄色い肌」「白い肌」「黒い肌」というのは、そこにあるときはただの特徴でしかない。だけど、一度「白い肌が美しいのだ。自分の黄色い肌や黒い肌は汚いのだ。」という価値観にハマってしまうと、使わなくてもいい化粧品を買ったり、どれだけ磨いても変わらない自分の肌に憤ったり、白い肌を持った人を妬んだり羨んだりすることになる。本当は、その黄色い肌こそが、黒い肌こそが、美しいかもしれないのに。ただの特徴を、殺して憎たらしく思うか、活かして魅力的に見せるかは、自分次第なのだと思う。

もちろん、私は人類の肌の色について議論をしたいわけではなく、サプールやバリ島の人々の話は、あくまでたとえだ。私やあなたがコンプレックスに感じている「それ」は、実は黄色・白・黒というただの特徴かもしれない。ただの特徴ならば、殺すこともできるし、活かすこともできる。

まあ、いわゆる「魅力的な人間」になれたとして雑誌やメディアで持て囃されることに成功しても、それが本当にわかってほしいあの人にだけはなぜか届かないってこともあるだろう。反対に、世間的にはまったく理解されないダサいことをやっているが、たった一人の愛するパートナーだけは捉えて離さないような魅力もある。殺すも活かすも自分次第だが、それをコントロールすることだけは、おそらくどんな人であっても不可能だ。

一昔前に、『小悪魔な女になる方法』という本で一世を風靡した蝶々さんというコラムニストがいたが、この人が雑誌かなんかで、「人は魅力でしか人を束縛することができない」というようなことをいっていた。小悪魔は置いておくにしても、これは本当だなあと、そのとき私は思った。


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