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【日記/27】整形と哲学

以前、東浩紀さんが何かの本(たぶんショッピングモールの本)のなかで、「自分の顔は自分のものではない」という話をしていて、へええ、と思ったことがある。

本来であれば、自分の顔は、紛れもなく自分のものであるはずである。だけど不幸にも、私たちはだれひとりとして、自分の顔を「生で」見ることは一生敵わない運命にある。自分の顔を、私たちは鏡やカメラを通してしか見ることができない。つまり、自分の「顔」とは、常に他者に向けられており、他者の目線を投影していることになる。

なぜこんな話をし出したのかというと、数日前に、ちいめろさんという、整形を頻繁に行なっているママブロガーのインタビュー記事を読んだからである。

http://mess-y.com/archives/26599

ちいめろさんは上記のインタビューで、目の二重の幅を「自然界ではあり得ないくらい」広くなるように手術したと答えている。そして自分の理想の顔を、モデルや女優の顔ではない、作り上げられた「整形顔」であるとも答えている。彼女の理想は、自然界には存在しないのだ。徹底的に作り上げた人工の顔こそが、彼女の理想なのである。理想の美を追求し、自然を廃するその態度は、ユイスマンスが書いた『さかしま』のフロレッサス・デゼッサントのようであるともいえる。

男ウケより、自分の理想の顔になりたい、と彼女は語る。これは、整形を繰り返す女性がしばしば口にすることでもある。私が前にSOLOで書いた、中村うさぎさんも同じことをいっていた。

http://sololife.jp/article/1156

「自分の顔はだれのものであるか?」

この命題に、私はしばし迷ってしまう。自分の顔を所有しているのは「私」であるが、自分の顔を見ているのは「他者」である。男ウケを考える女性は、東浩紀さんのいうような、従来的な思想で自分を作り上げることに疑問を抱かない。しかし、ちいめろさんや中村うさぎさんの行動は、もしかするとそんな「他者」たちから自分の顔を取り戻そうとする、一種の哲学的挑戦なのかもしれない、などと私は考えた。

鷲田清一氏の本が2冊積ん読になっているので、週末はこれを読んで過ごすのがいいかもしれない。『ちぐはぐな身体』と『モードの迷宮』である。あと、なんだかんだいって『じぶん・この不思議な存在』とかも読んだことがないので、2冊の積ん読が無事解消できたら買おうかな、などと考えた。



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