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【9/16】大きな決断に意味はない

大学院にまで行って映画批評を学んでいたという変な経歴のせいか、学生さんから進路について相談されることが少なくない。

ちなみに恋愛についての相談をされたことは私の記憶にある限り公私ともにほぼゼロで、みんな私という人間についてよく理解してるじゃねえかと思う。まあ、今回出した本は恋愛について書いた部分が少なからずあるので、著者としてそれはちょっとどうなんだという話ではあるが。

でも別にそれでいい。人の心の機微みたいなものは、私は基本的に門外漢なので、よくわからない。そういうことにしておこう。

それはそれとして、相談を受けていて──というわけではなく、もっと広く、ここ数年思ったこととして。人生において、大きな決断というのは、実はあまり意味をなさないんじゃないかって気がしてきたのだ。

アルゼンチン19

大きな決断というのは、合格した2つの大学のうちどちらに進学するかとか、内定が出た複数の企業のうちどこに就職するかとか、あるいは誰と結婚するかとか、いつ転職するかとか。本人にとってはもちろん重く、場合によっては何日間も何ヵ月間も頭を悩ませるような事案なんだろうが、結局はどちらを、何を、誰を選んでもあまり変わらないんじゃないかって私は思う。

では人生において大きな意味をなすのは何かというと、なんだか胡散臭い自己啓発書みたいになっちゃうけど、私の考えは「習慣」だ。人生に何回か行う程度の大きな決断よりも、小さくても毎日、何百何千回と行う習慣のほうが、よっぽど人生にあたえる影響が大きい。どこの大学に行くか、どこに就職するか、誰と結婚するかよりも、今日何時に起きたか、今日何を食べたか、何を見て何を書いて何を考えたか。そういう小さなことのほうが、人生を形作っている実感がある。

私は結局、就職したくなくて大学院に進学したのだけど……あのとき、別に進学せずに、諦めてそのへんのテキトーな会社に就職してたとしても。32歳になった今は、結局こうなっていたんじゃないかと思う。つまり、どんな人生のルートに入っても、私は本を読んで、旅をして、ブログを書いていたんじゃないのかな。

大学院に行かなかった人生や、どこかで誰かと結婚していた人生は想像できるけど、本を読んでいない人生は、私の場合はちょっと考えにくい。毎日心を傾けているものがあるならば、私たちの心は自然とそちらのほうに寄っていくものなのだ。まじで、良くも悪くも、だけど。

旅行中の本

とはいえ、私も説教くさい話は嫌いである。朝は早く起きるべしとか、丁寧な暮らしとか、季節の食材を並べた食卓とか、美味しいコーヒーが飲めるカフェで読書とか、大好きな人たちと飲むお酒とか、はあメンドくさ、と思っている。そういう話なんだけど、そういう話じゃないんだよな。いや、そういう話なんだけど〜〜。

私は朝そんなに早く起きてないし、アンチ丁寧な暮らしだし、食事は「今日、何を食べたいか」に思考ソースを割きたくないので「納豆ごはん・味噌汁・漬物」を日替わりローテーションだし(あと社食)、おしゃれなカフェが徒歩圏内にないのでタリーズが御用達だし、あと酒が飲めない。本を読むのは好きだけど、集中力がなくてあちこちに興味がとぶので、5冊くらい並行して読みたい。カフェで何か読むのは、それが集中しなくてはいけない仕事関係の本のときだけだ。雰囲気としては全然おしゃれではない。毎日心を傾けて考えていることといえば、世の中の不公平について、世にはびこる論理の矛盾について、この世の中の成り立ちについて。年々ルサンチマンが蓄積していくばかりなので、自分はこの先かなりやばい老害になるんじゃないかと心配している。

そういうわけで、実感はあるのだけど、自分よりも若い人に「大きな決断よりも、毎日の小さな習慣や、日々何にどれくらい心を傾けるかが、人生を決めるんだよ」と説くのは難しい。20代前半くらいだと、なかなかピンとこない話だ。

もっと上手く言えたらいいんだけど、それにしては私のほうも、まだ人生経験が足りなすぎるな。本当に、もっと上手く言えたらいいんだけど。

شكرا لك!