【9/13】夜の雲、海底の街

一昨日から、私の初書籍である『寂しくもないし、孤独でもないけれど、じゃあこの心のモヤモヤは何だと言うのか 女の人生をナナメ上から見つめるブックガイド』が、書店に並んでいる。

ちなみに私はなんに対しても疑り深いので、この期に及んで「ドッキリでは?」という疑念を晴らすことができず、渋谷のMARUZEN&ジュンク堂書店まで行って、ちゃんと陳列してあるのを確認してきた。MARUZEN&ジュンク堂書店もグルで私をだましている可能性もなくはないが、とりあえず疑念のほうは、いったん置いておくことにする。

夕暮れの黄金の光のなかで、飛行機の下につらなる丘にはすでに長い陰影が彫り込まれていた。平野は光に満たされ始めていた、それも色褪せない光に。冬がすぎても名残りの雪が消え残っているように、この国では、見渡すかぎりの平原に黄昏の金色の光がいつまでも残っている。

さて、この文章は今回の本で私が「はじめに」に書いた──と、いうのは大嘘で、サン=テグジュペリの小説『夜間飛行』の、冒頭に登場する文章である。私にこんな美しい文章が書けるわけがないので、嘘をこくにしても身の程をわきまえろって感じだが、個人的には本当に、読むたびに胸が震える一節だ。

主人公のファビアンは、南米大陸の最果てであるパタゴニアと、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスを飛行する郵便線のパイロットである。小説が出版されたのは、1931年。まだ夜間に飛行機を飛ばすには、大きな危険がともなった時代の物語だ。

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『星の王子さま』が、私は幼い頃そんなに好きではなかった。なんつーか、説教くさい気がしていたのである。箱根に星の王子さまミュージアムっていうのがあって、私は小田原に住んでいたので小学生くらいのとき親に連れて行かれたけれど、子供ながらに「子供だましの施設だな」と思っていた。嫌なガキだな!

だからテグジュペリの『夜間飛行』や『人間の大地』を読んだのは、20代後半になってからだ。いいとこのお坊っちゃんとして生まれたにもかかわらず、危険な飛行計画を好み、飛行機に乗ることに生涯を費やしたテグジュペリ。最期はコルシカ島から偵察飛行に飛び立ったところを、ドイツ軍戦闘機に撃墜され、そのまま帰らぬ人となった。テグジュペリを撃墜した人物は、なんと彼の物語のファンだったという。「乗っていたのがテグジュペリだと知っていたら撃たなかった」とその人物が語っているのを読んで、涙が出た(※1)。

テグジュペリはなぜ、危険な飛行計画を好んだのか。『夜間飛行』という物語を書いたのか。はるか上空の雲の上から、彼には、この世界がどんなふうに見えていたのだろうか。

「この街もね……。みるみる遠ざかっていくんだよ。夜に出発するのはすてきだ。機首を南にむけて、操縦桿を手前に引く。一〇秒後には景色を逆にして、機首は北。そうしたら街はもう海の底に見えるだけだ」

夜の空の下、飛行機が上昇すると街は海底に沈む。海底に遺された者たちは、二度と帰らないかもしれない夫を、部下を、友人を思う。今この現実は変わらずにあるのに、一度はるか上空まで飛び立ってしまったパイロットにとって、手で触れられるこの現実は「海底」に沈んでしまうのだ。なんて、残酷で美しい描写だろうと思う。家に灯る明かりも、愛する人も、大切なものも、許せない出来事も、すべてを海の底に置き去りにして、自分は夜の空を飛行しながら自由を手に入れる。危険な飛行に取り憑かれる人間がいる、ということを私はとてもよく理解できる。

「美しすぎる 」とファビアンは思った。彼は星々が宝のようにびっしりと煌めくなかをさまよっていた。そこはファビアンと通信士のほかには誰もいない世界、まちがいなく誰ひとり生きていない世界だった。宝の蔵に閉じ込められて二度と外には出られないおとぎ話の盗賊のように、つめたい宝石に囲まれて、かぎりなく富裕でありながら死を宣告された身として、彼らはさまよっていたのである。

パタゴニアからブエノスアイレスを飛行しているファビアンは、途中でこの世のものとは思えない光景を、あまりにも美しすぎる光を見る。雲が月光を反射して、きらきらと輝いている。これは危険な状況にいるファビアンが精神の混濁する中で見た光景なのか、それとも科学的に本当にこういう現象が起こりうるのか、私にはよくわからない。ただ彼は──ファビアンは、テグジュペリは、きっとこの光景を見たいがために、危険な飛行計画を好んだのではないか。

命を危険に晒してでも自由求め、美しいものを見たいと願うことは、大切なものを海底に置き去りにすることは、罪だろうか。きっと、罪にはちがいない。だけど、ある種の人間は、そんな罪にどうしようもなく魅せられてしまうのだろう。

ファビアンはこの危険な状況で、うしろに乗っている通信士のほうを振り返る。

「われながら頭がおかしいな 」とファビアンは思った。「笑うなんて。二人とも、もう終わりなのに」

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物語の結末は明かさないことにしよう。『夜間飛行』はこんなふうにして、パタゴニア便、チリ便、パラグアイ便、欧州便、そして地上で起きる一晩の様子を、緊張感を途切れさせないまま描ききる。

飛行機を自ら操縦し、自由に夜の空を飛び回ることは、きっと私を始め、これを読んでいる人も、生涯行わないと思う。

だけど、ときおり上空を見上げてみてほしい。月光と星の輝きだけに満たされた、すべてを海の底に置き去りにした、この場所とは何もかもがちがう世界が、そこにあるのだ。その場所のことを想像するだけで、私たちはきっと、精神の自由を、少しばかり獲得することができる。

今日のこの街もまた、だれかの胸の中で、海底に沈む。

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(※1)「星の王子さま」著者を撃墜、元独軍パイロットが証言

(※)引用元:『夜間飛行』 光文社古典新訳文庫、二木麻里訳

(※)本文中の写真は、世界の最果てウシュアイア の灯台と、飛行機の中から見たブエノスアイレス。4月のアルゼンチン旅行で撮ったものです。

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