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【日記/13】煩悩よさらば

20代前半の頃、まわりの人によく、「早く30歳になりたい」といっていた。「早く30歳になって、今のこの煩悩だらけの日々と決別し、悟りを開きたい」と。そういうと、たいがいみんなに笑われた。

まあ、そりゃそうである。30歳を目前にしてみればわかるが、たかだか生まれて30年で、煩悩など捨てられない。むしろ増えている気さえする。いったい、いつになったら、私は悟りを開けるのだろう。やはり、「不惑」といわれる40を待たなければならないのだろうか。たかだか30では、「而立」、両足で立つのが精一杯である。

話は変わるが、自分は最近ふとしたときに、『奥の細道』の序文を音読している。心に波が立ったとき、芭蕉の紀行文を読むと、これが実に沁みる。

「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。

舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を棲とす。古人も多く旅に死せるあり。

予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、や ゝ年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、そヾろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もゝ引の破をつり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

草の戸も住替る代ぞ雛の家

面八句を庵の柱に 懸置。」

この有名な序文を、知らない人はいないだろう。

なぜなら多くの人は、これを中学校の国語で習うからである。私の通っていた中学校では、この序文を暗記させられ、テストで穴埋め問題が出た。きちんと得点がとれたかは記憶にないが、当時は意味もわからず、ただ機械的に、「音声」として、この序文を暗記していた。

それはまあ、しかたのないことでもある。私は決して感性豊かな子供ではなかったので、「月日は二度と帰らない旅人である」とかいわれても、ピンと来なかった。中学生でその感性は、ちょっとシブすぎるだろう。当時、他のみんなはこの序文の素晴らしさを、理解していたのだろうか? 今度同級生に会う機会があったら、聞いてみたいところではある。

当時を思い出してみると、私はこの序文を、隠居したじいさんが老人会かなんかで書いたようなものだと思い込んでいた気がする。だけど、30を目前にして改めて読んでみると、隠居したじいさんどころか、これから始まる未知の世界を前にして、「オラ、ワクワクしてきたぞ!」っていっているではないか。なぜそんな読み違えをしていたのだろう。中学生だからしょうがないのだろうか。中学生からしてみれば、松尾芭蕉はじいさんである。アラサーからしてみてもじいさんだが。

月日は二度と戻らぬ旅人であり、人はみな旅をしている。場所を移すとか移さないは、たいした問題ではない。人はみな、日々旅をして、旅をすみかとしている。だから、だれだって旅の道中で亡くなるのだ。

『奥の細道』の素敵なところは、これから始まる未知の世界への期待と、後に残していく二度と戻らない日々への憧憬が、同時に書かれているところにある。ワクワクしているだけの悟空ならきっと、後に残した家のことを思って、「草の戸も住替る代ぞ雛の家」、なんて句は書かないだろう。私はアラサーになった今、この句を読むとちょっと泣きそうになる。

それは、『グレート・ギャツビー』の最後の一文にも、ちょっと似ているからだ。

Amazonで『おくのほそ道(全) (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス) 』のレビューを読むと、40代、50代になって、初めて芭蕉の素晴らしさを理解できるようになった、みたいなことを書いておられる方がいる。若輩者の私も、まだまだ芭蕉の真髄に迫れているとはとてもじゃないがいい難い。

年齢を重ねていくことは、何かを失っていく過程である。だけど、その失ったものと引き換えに、新しく得られる何かもきっとある。基本はすべて、等価交換ってわけだ。そう考えるとわかりやすい。

私は何と引き換えにしたら、この数多の煩悩を捨てられるだろうか? しかしそれは、おそらくまだまだ先の話になりそうだ。

شكرا لك!