エルサレムのイチゴ

【第19回】今週のアルジャジーラ〔アメリカ〕

毎週金曜日、お疲れの週末にさらにお疲れなニュースをお届けする「今週のアルジャジーラ」。今週は、まずこちらのツイートをみなさんにご覧になってほしい。

なんと、「今週のアルジャジーラ」の記事をnote公式にツイートしてもらえたのである!!!

note公式は、明確な基準はちょっと不明だが、noteに投稿された記事の中からPV?数が多いものをツイートしているようだ。ありがたいことに私の普段のコラム(という名のぼやき、もしくは日記)は何度か取り上げてもらったことがあるが、「今週のアルジャジーラ」に至っては初めてである。

もともと☆の数も少ないし、書いている私自身が「だれが読むんだコレ」と思ってやっている「今週のアルジャジーラ」が、まさかまさか公式に取り上げてもらえるなんて! 「出来の悪い子ほどかわいい」というが、あのハイハイしかできなかった「今週のアルちゃん」が気が付いたら壁を伝ってよちよち歩いてるじゃないの、とバカ親は感動してしまった。これもいつも読んでくれている物好きなみなさんのおかげである。今後もアルちゃんをよろしくね。

さて、今週私が気になった記事はこちら。

Muslim ban: Japanese and Muslim Americans join forces

トランプ大統領がイスラム圏7か国(イラン、イラク、シリア、リビア、ソマリア、スーダン、イエメン)からの入国者を拒否したという問題について、世界中のメディアが連日報道している。アルジャジーラも、今週はこの話題が多かったように思う。

上記のアルジャジーラの記事は、現在入国を拒否され差別的な目線に晒されているムスリムたちの境遇に、第二次世界大戦中に同じように差別的な待遇を受けていた日系アメリカ人たちが共感を寄せている、という内容だ。1942年2月19日、フランクリン・D・ルーズベルト大統領は日系アメリカ人を強制収容する軍事行動を可能にする大統領行政命令に署名している。

日系アメリカ人たちはこの歴史的な出来事を思い出し、アメリカのムスリムと連携して#VigilantLoveという組織を作ったらしい。

日本が歩んできた歴史と、今イスラム教徒が直面している現実とがこうして重なり合うのは興味深い。普段の生活ではあまり実感がわかないけれど、私たちだって、いつどこで差別されるか迫害されるか、わかったもんじゃないのだ。

#VigilantLoveでTwitterを検索すると 、様々な出身の人の意見に触れることができてとても面白い。どうでもいいけど、Twitterの強みってFacebookみたいに現実の知り合いに特化してないところなんだから、翻訳機能とかを強化して日本人とアメリカ人、イラン人でコミュニケーションができるとか、国境を超えたSNSみたいになればいいのに〜みたく思う。

以下は、前回の続き。前回は、第二次世界大戦が終わったくらいまでのことをまとめた。

その後、1948年、1956年、1967年に、イスラエルと周辺のアラブ諸国との間で「中東戦争」が起きる。48年の第一次中東戦争ではイスラエル側が勝利したが、エルサレムは新市街側しか確保することができず、旧市街を含むヨルダン川西岸地区はトランスヨルダンに、ガザ地区はエジプトにそれぞれ分割された。

(※観光客で賑わう現在のエルサレム旧市街)

続く56年の第二次中東戦争は、エジプトとイスラエルがスエズ運河をめぐって争ったやつ。英仏がイスラエル側につき、米ソがこれに抗議。結果的には、スエズ運河はエジプトが国有化を進めた。そして67年の第三次中東戦争では、イスラエル側が圧勝。第一次のときに奪えなかったエルサレム旧市街、ヨルダン川西岸地区、そしてガザ地区を占拠した。

そして、この年代の出来事として、もう1つ触れておきたいのが1961年のアイヒマン裁判である。知っている人も多い話かもしれないが、ナチス親衛隊だったアドルフ・アイヒマンがホロコーストの責任を問われ、死刑判決を受けたという裁判である。

アイヒマンという名前は、「アイヒマン実験」という名で耳にすることが多いだろう。「先生」役と「生徒」役に分かれ、生徒役は別室にいるもう一人の生徒役に問題を出し、解答を間違えたらボタンを押して電気ショックを与える。

電気ショックを与えると別室の生徒役は苦しむので、生徒役は先生役に「実験を中止したい」と申し出るのだけど、先生役は「続行してください」の一点張り。すると、生徒役は先生に従い、目の前の別の生徒役がどんなに苦しんでいても、ボタンを押して電気ショックを与え続ける。

この実験で証明されたのは、アイヒマンが単独で絶対的な悪だったのではない、ということだ。人間ならだれでも、権力の下で一定の状況に陥ると、信じられないような極悪非道なことを実行してしまう。それを女性哲学者のハンナ・アーレントは、「凡庸な悪」と名付けた。

「凡庸な悪」という言葉は、おそらく今後の21世紀においても重要なキーワードになると思う。だれか絶対的な悪いやつがいるのではなく、私たち自身が、自分の中に「凡庸な悪」を抱えている。そのことに自覚的でなければならないのだろう。

というわけで、また来週……。

شكرا لك!