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【6/15】ルッキズムとコンプレックス

SNS等で使う用の写真を撮ってもらいたいなと、今年に入ってからずっと思っている。できれば、プロの写真家の友人がいるので、彼女に撮ってもらいたいなと思っている。

私はすごく人見知りをする……というか、初めて会う人の前ではあまり表情が出ない。だから、普段の私のことをよく知っている人のほうが、良い写真を撮ってくれそうだと勝手に思っている。まあそこを何とかする術をプロはみんな持っているはずなので、あまり心配しすぎなくていいのかもしれないけど。

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ところで、近年は「多様性の時代」といわれる。様々な鬱陶しいコードを廃止しようとする動きは、私自身とても応援したいものだ。女子の制服はスカートに限定しなくてもいいし、男子が制服でスカートをはいてもいいし、ヒールの靴は好きな人が好きなときだけはけばいいし、メイクはしてもしなくてもいいし、他、いろいろ。NIKEがプラスサイズのマネキンを店舗に置いたりとか。「美」の画一的な基準を取っ払おう、みんな違ってみんな美しいのだから! という時代の空気を感じる。

この空気はとても応援したいものなのだけど、一方で、画一的な基準を失った(失っていく)私たちは、いったい何に「美しさ」を見いだすのだろう、なんて考えたりする。性善説に基づいたものすごいハッピーな世界観で考えるなら、「笑顔」とか「生き生きとした表情」とか、そういうのだろうか。

しかしだとすると、人見知りすぎて付き合いが浅い人の前では基本的に顔が死んでいる私などは、「ものすごいブス」ということになってしまう。まあそれは仕方がないとしても、顔面麻痺などの障害を抱えている人も、やはり「醜い」ということにされてしまうのだろうか。「美」とはやはり、何かを生かすと、もう一方の何かが死ぬものなのではないだろうか。相対的なものなのではないか、「絶対的な美」などという複雑な思考に私たちは耐えうるのか。

なんに対してもまず批判的な思考をする根暗の私は、なんだかそういうことを自然と考えてしまうのである。プラスサイズのマネキンを置くのは良い動きだと思うのだけど、太っていることだって「美しい」とした場合、私たちの頭の中から「ダイエット」という言葉ははたして消えるのだろうか? また、人間が「容姿の美醜」という概念を持っているのは、「子孫を残すために、優秀な遺伝子を持つ健康な者を見分ける」という生物学的な本能があるからだ。その本能に、「多様性」という現代の理性はどこまで抗うことができるのか。そんなことに興味を持って、私はこの多様性の時代を見つめている。美についての哲学の本などを読むと、このへんの答えが少し見つかったりするのかな。

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こんな時代に思うことは他にもある。「美容整形」についてだ。

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