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【日記/5】面と向かっていえないこと

ブログは昨日更新したけど、noteは今年初。ということで、明けましておめでとうございます。今年もチェコ好き本人及びブログ及びnote及び連載及びその他諸々よろしくお願いいたします。

http://aniram-czech.hatenablog.com/entry/2016/01/01/112614

(※ブログはこちら↑です)

さて、年末年始を私は実家の家族と過ごしていた。「過ごしていた」と過去形になっているのは、今はもう自宅に戻って1人で作業しているからである。読んで、書くの永久機関。許されるなら私は眠ることも食べることも放棄できる体になりたい。

実家の家族との年末年始を、私は主に1人で本を読みながら過ごした。自宅でもいつも1人で本を読んでいるのだから、たまには会話せよと思われるかもしれないが、家族は家族なだけあって、私が心底根暗であることについてはもう諦めているようである。紅白歌合戦をBGMに、私はパレスチナとセルビアに行った著者の紀行文を読んでいた。

セルビアの歴史というのはとてもわかりづらい。ユーゴスラヴィアって何? ベオグラードってどこ? 地図を確認したりWikipediaばっかり読んでいたら全然進まなかった。気分転換に紅白でも見ようかと本を閉じたらTVの画面にゴールデンボンバーが映っていて、この2時間くらいで頑張って整理したWikipediaの知識が全部吹っ飛びそうになったので、視聴は諦めた。

そんなわけで結局今年も紅白は見なかったのだけど、Twitterを開くとみんなが喧々諤々と楽しそうに騒いでいて、なんだかいいなと思った。はあちゅうさんが「(facebookとちがって)Twitterではみんな紅白見ながらだらだらしててだれも感謝とか来年の抱負とかいってなくていいな」という主旨の発言をしていたが、そうだなあと思った。年末でもないとなかなかそういう機会もないが、Twitterはみんなで一緒にTVを見てるかのような錯覚を覚えさせる。

みんなで炬燵に入ってTVを囲んで、どうでもいい文句をいってだらだらして、みかんとか蕎麦とかお雑煮とか食べて、そのまま酒飲んで炬燵で寝る、っていうのは年末年始の過ごし方としてはたぶん最高だ。家族と過ごしながら、Twitterのタイムラインを見ながら、なんとなくそんなことを思った。

だけど、たとえ最高でも、多くの場合私はその輪に加わることができない。紅白を前にしてもパレスチナとセルビアの紀行文が気になってしまうし、あと恨み節のように何度もいうが私は酒が飲めない。

だから私は、TVを囲んでみんなが集まる中央の炬燵席を少し離れた、独立したソファー席にいつも1人で座っている。そこでみんなの笑い声や紅白の音声をBGMにしながら、読書している。たまに酔っ払って席を立ち上がったやつが絡んでくるが、気が向いたらやつの相手をし、気が向かなかかったら無視する。別に怒っているわけではない。酔っ払いは、酔っ払ったまま何事もなかったかのように去っていく。

そうして夜が明けて元日の昼になると、酔いが覚めた人から徐々に炬燵から起き上がってくる。彼らのなかには、もそもそと起き上がってきた後、思い出したように改めて私が読んでいる本に興味を持ってくれる人がいる。私は彼らのなかの1人と、パレスチナとイスラエルの対立について話し合う。テルアビブが、ガザ地区が、今どんなふうになっているのかを一緒に想像する。彼は、昨夜の酔っ払いと同一人物とは思えないような明晰な意見をいい、満足そうな顔をして私の元を去っていく。

そして、解散する。

家族とか、友情とか、そういうのは私にとってだいたいこんなかんじだ。私は独立したソファー席にいる。でも不思議なことに、世の中には、一緒に炬燵に入らなくてもいいと考えてくれる人がいる。またそれよりももっと稀なケースとして、たまに一緒にソファー席に座ってくれる人もいる。

そういう人たちのために、私はもっと面白いものを持ってこようと思う。それが独立したソファー席に座る人の、役割だと思っているので。

(※この物語には一部フィクションが含まれています)





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