エルサレムのホステル

【日記/35】マイルドヤンキーでもシティガールでもなく

東京は、私にとって世界でいちばん過ごしやすい大都市である。

なぜかというと、まずは私の母語である日本語が通じる。あとは、トイレが綺麗だ。商業施設のトイレの綺麗さで、世界に東京を(というか日本を)上回る大都市はないだろう。

逆にいうと、ありえないことではあるけれど、もしニューヨークで、パリで、ロンドンで、ローマで、ソウルで、テルアビブで、日本語が通じるようになったら。そして、さらにありえないことではあるけれど、それらの各都市のトイレが綺麗になったら。私にとって、おそらく東京は、あまり価値のある都市ではなくなる。私は日本人だから、相変わらず東京と関わり続けはするだろうけど、そこに特別な意味は見出さなくなるだろう。言語とトイレ以外に、東京には、「友達がいっぱいいる」という価値もあるけれど、言葉の壁さえ解消できればニューヨークでもパリでもテルアビブでも、友達はできるだろう。大都市で、そこそこの人口を有している場所であれば、どこでも。

なんでこんな話を始めたのかというと、別に東京disをやろうとしているわけではない。上の書き方だとdisに思われてしまうかもしれないが、そうじゃなくて、要するに私にとっての東京とは、ニューヨークやパリやロンドンやソウルやテルアビブと変わらない場所だ、ということがいいたかったのである。東京は、日本語が通じて、トイレが綺麗で、友達がいるという点で、他の都市より頭ひとつ抜き出てはいる。だけどそれって交換可能な条件で、なんというか、東京自体が有している東京自体の魅力みたいなものが、私にはよくわからない。いや、わかるのだけど、それはニューヨークを魅力的だと思う気持ちや、パリを魅力的だと思う気持ちや、テルアビブについて考え込んでしまう気持ちを、凌ぐことはない。

私には、世界で「ここは特別だ」と思える都市がどこにもない。

大都市に話題を限定しているとややこしくなってしまうかもしれないので、私の地元の話をする。私が育った場所は神奈川県の小田原市というところなのだけど、ここに何か特別な思い入れはあるかと聞かれたら、やっぱり、ほとんどない。日本語が通じて便利だなと思う。商業施設のトイレが綺麗で、快適だなと思う。海が見えていいなあと思う。家族と友達がいるから、たまにはもどる。だけど、それらはすべて、交換可能な条件だ。御幸が浜じゃないとダメなんだ、地中海の海じゃダメなんだ、なんてこれっぽっちも思わない。海はいいけれど、世界に海なんていくらでもある。お隣の熱海の海だっていいし、日本海だっていい。

そもそも、なんでこんなことを書き始めたのかというと、旅行写真家の佐藤健寿が、チェルノブイリの立ち入り禁止地区に住む女性にインタビューをしている映像を見たからである。インタビューは、その50代くらいの女性の自宅で行なわれていた。

佐藤は女性にたずねる。「チェルノブイリの原発事故は、あなたの人生にどのような影響をもたらしましたか?」

佐藤から質問を受けた途端、それまで快活な受け答えをしていた女性の顔が曇る。彼女は目に涙を浮かべ、こう答えるのだ。

「あなたの質問とはズレた回答になってしまうけど……家に、帰りたい」

ありえない話をしよう。SFだ。東京でも、地元でも、海外の都市でも、あなたが住んだことのある街ならどこでもいい。その街の地中から、第二次世界大戦中にどこかの国の軍隊が埋めた、原子爆弾が見つかったとする。これまでは問題なかったが、自然災害か何かでその爆弾が地表のほうに出てきてしまい、日常生活ができないほどの放射能を発するようになったとする。そうなったら、あなたはどうするだろうか?

私は移住する。家族や友達にも移住を勧める。メディアは、もうその土地にもどってくることは基本的には不可能だと報道している。かまわない。もちろん、少し寂しい気持ちはあるかもしれない。悲しくもなると思う。パニックにもなると思う。だけど落ち着いて冷静に考えてみれば、別に問題はない。だって、私にとってすべての条件は交換可能なのだ。

だからわからなかった。今もチェルノブイリに住む女性が、「家に帰りたい」といった理由が。

彼女のいう「家」とは、何を指しているのだろう。事故が起きる前に住んでいた、もともとの家だろうか。その家とは、交換不可能なものなのだろうか。不可能だとしたら、何がそれを不可能にしているのだろうか。

もう1つある。太宰治の『人間失格』で、意識が混濁した主人公が、朦朧とするなかでやはり「家に帰りたい」と呟く場面があった。彼のいう「家」とは、いったい何を指しているのだろう。

私にはわからない。わからないけどなぜか、「家に帰りたい」という言葉を聞くと、胸がぎゅっと苦しくなってしまう。

なんの話だっけ、そう、私は地元に特別な思い入れはないから、マイルドヤンキーではない。だけど、大都市に特別な思い入れもないから、シティガールでもない。旅行は大好きで、思い出のある土地はたくさんあるけれど、すべての都市の思い出は平等で、すべての都市は東京とも地元とも等価値だ。

だから、ある特定の土地を特別に思う気持ちってどんなものなんだろうな、なんて思う。それは交換不可能なものなのだろうか。不可能なのだとしたら、何がそれを不可能にしているのだろうか。

よくわからないけど、土地とノスタルジア、都市と記憶、それって私の生涯の研究テーマだ。大学の卒論も、大学院の修論も、考えようによってはそういう話だった。

私の、あなたの、「家」はどこにあるのだろう。そこに今から帰ることは、可能だろうか。あるいは、不可能だろうか。不可能なのだとしたら、それはなぜか。

ポジティブにでも、あるいはネガティブにでも、ある土地について熱っぽく語っている人を見かけると、私はそんなことを考えるのだった。


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