見出し画像

【9/26】ちょっと待って。「いい自虐」と「悪い自虐」があるのでは?

最近、「自虐はよくない」という主張を、いろいろなところで目にするようになった。記憶に新しい目立つところでは、お笑いタレントのバービーさん、またつづ井さんのnoteなどだ。デブ、ブス、未婚、彼氏がいない、恋愛経験が少ない──こういった事柄について自虐をしつつ笑いを誘うのは、うーん、確かに、私もあんまり好きじゃない。(※1)

ただ一方で、「これからの時代、自虐は全部だめ。問答無用で全部だめ!」とまとめ上げるのは、ちょっと早計なのではないか。と、思ったりもするのである。

写真美術館のミントティー

個人的なことを申し上げると、私は自虐ネタが大好きだ。どれくらい好きかというと、大学と大学院で「自虐を含むブラックユーモア」について研究していたくらい、大好物である。具体的には、社会主義体制の下にあった1960年代のチェコ映画を研究していたのだけど……まあ、この話を詳しく書くとすんげ〜長さになるので、別の機会に譲ろう。

確かに、あまり歓迎できない自虐表現ってのはあると思う。上に書いた「デブ、ブス、恋愛経験が少ないこと」などへの自虐表現に、モヤモヤを覚える人はいてもおかしくない。というか、私もそのモヤモヤを覚える1人であることは、ここでもう一度強調しておきたい。

でも、でも〜。みんな「シルバー川柳」は批判しないよね。私も「シルバー川柳」は好きなんだよね。ふふってなる。「シルバー川柳」は自虐ではないのか? これは立派な自虐表現である。

私は理屈屋なので、「自虐はだめ」と聞くと「シルバー川柳も?」と聞き返したくなるのだ。

もしあなたが「シルバー川柳は、あり」とおっしゃるなら、「いい自虐」と「悪い自虐」をきちんと区別して、後者のみを批判しなければ筋が悪い。

もしくは、もしあなたがここで区別することをせずに「そうだよ、シルバー川柳もだめ」とおっしゃるなら、ここから私とあなたはちょっと表に出て、つかみ合い殴り合いの大乱闘を始めないといけないかもしれない。私は、自虐やブラックユーモアは大切な文化の一側面で、守り継承していくべきものだと考えているのだ。(※2)

そういうわけで、表に出て大乱闘派の人はちょっと置いておくにしても、「いい自虐」と「悪い自虐」──いや、「いい」「悪い」という分け方はあまり本質的ではないかもしれない……「時代とともに歩む自虐」と「時代にそぐわない自虐」? まあ、名称はちょっといいのが思いつかないのでとばすけど、これをちゃんと区別したほうがよくないか。そして、考え出すと、この区別がなかなか困難であるということにも気づく。

「デブ、ブス」は特定の属性への差別なのでNGだが、年をとるのはみんな同じだからOKなのか? 何を自虐するかという問題ではなく、それが与える印象や読後感の問題なのか? それとも、今のところあまり批判の的にはなっていない「シルバー川柳」や「綾小路きみまろ」も、将来的にはやっぱりNGなのか? 「自虐ぜんぶだめ絶対」が正しいのか?

私の提案は「区別しよう」にとどまっており、実をいうと、「いい自虐」と「悪い自虐」の、画期的な区別方法は思いついていない。思いついていないのにこんなことを書くのは中途半端だとも思ったが、なんか、私は一部の人の「自虐ぜんぶだめ絶対論」はあまりにも穴が大きい気がしたので、もし多くの人がそれを通すつもりなら、議論しなければならないと思ったのである。I love 議論。

最後に、これは自虐とはちょっと違うけど、似た問題として風刺表現がある。シャルリー・エブドの風刺表現に対する、私の考えを書いておこう。

まず、シャルリー・エブドの風刺表現は批判されるべき対象であると私ははっきり思う。ただ「批判されるべき対象」は「規制されるべき対象」なのか? という話になると、私もちょっと考え込んでしまう。ここでは、「規制」についてはちょっと置いといて、「批判されるべき対象」であると思う理由について書く。

私は自虐と同時に風刺表現も大好物なのだけど、「風刺」には、念頭に置かねばならない大原則があると思っている。それは、「弱者が強者に卵をぶつける」構図になっていなければならないことだ。

私が研究していた1960年代のチェコ映画はまさにこれで、社会主義体制の下にあったチェコスロヴァキアの芸術家たちは、厳しい検閲が行われる中、自由に作品を作ることが許されなかった。それでも、お上に媚びるための作品なんて意地でも作りたくなかった彼らは、子供向けのアニメにブラックユーモアを混ぜて当局を批判したり、アナーキーな風刺映画を作って上映禁止処分を受けたりすることを恐れなかった。恐れなかったというか、人間の自由な精神が、「お上に媚びるため」の作品作りなど自分に許さなかったのだろう。どんなに厳しい状況でも、笑いとばすことができる。笑いを抵抗に変えられる。どんな権力にも、屈する必要はない。どんな社会に生きていたって、私たちの精神は自由だ。そんなことを教えてくれるから、私はこの時代のチェコ映画が大好きなのだ。

一方、シャルリー・エブドの風刺表現はどうだろうか。これは、「強者が弱者に石をぶつける」行為に、私には見える。これはブラックユーモアではない。ただの差別といじめである。差別といじめにユーモアはない。

ドア・スカンノ13

……と、私は理解しているのだけど、これはこれで今、ややこしい問題を含んでいると感じる。現代社会では、「強者」と「弱者」の区別がつきにくい。1960年代のチェコスロヴァキアとは状況が違うのだ。

たとえば、男性は「強者」で女性は「弱者」である、なんて簡単にいい切れないだろう。SNSのおかげなのかなんなのか、今は、いろいろな立場の人が、いろいろな理由で弱者であり、苦しんでいるのだということが可視化されてきた。すると、自分が弱者だと感じている人は、どこに卵を投げればいいのかわからないのである。結果、しっちゃかめっちゃかな方向に投げて、自爆しているような例も見る。

「いい自虐」と「悪い自虐」の区別はけっこう難しいし、「強者」と「弱者」の区別もけっこう難しいし、〈表現の自由〉で保護されるべきものと規制されるべきものも、一律に決めるのは難しい。難しいというか、様々な立場の人の意見が対立している。みんな、自分が正しいと思っている──もちろん私だって、いくらかは「自分が正しい」と思っていなければ、こんな文章を書いて公開しない。でも、その面倒な区別や議論を避けることは、きっと、文化を貧しいものにしてしまうだろう。

議論や、考えることを避けないこと。めんどくさがらないこと。できることはそれくらいしかないけれど、「表現」をめぐる問題ってけっこう難しいんだよなって感覚は、なんか、もうちょっとあってもいいんじゃないかって思った。

こちらの本は、そんな現代社会……のことはあまり書いていないが、いや書いてるな、とにかくいろいろなモヤモヤを抱えた人にオススメです。こういう面倒なことを、みんなで考えられたらいいなと私は思っている。

(※1)日刊スポーツの記事によると、「自虐はお笑いやエンターテインメントにおいて大事な文化だし、それを否定するつもりはありません。ただ、私自身は自分で自分をさげすむような発言はしないように気をつけています」とバービーさんは言っている。そう、大事な文化でもあるのだ。つづ井さんも、一律にぜんぶだめとは言っていない。この文章はお二人への批判ではもちろんなく、「それを巡る言説」に疑問を呈している。
(※2)まあ実際は、守り継承なんかしなくても、私のような意地汚い人間がいつの世にもいるはずなので、ブラックユーモア的な文化はたとえ村に火を放って何もかもをチリチリに燃やしても根絶不可能だと思う。それが人間だ。とはいえ、議論は重ねなければならない。



شكرا لك!