心(思考)はただの脳の分泌物、「自分」ではない

前日の夜に精神的にかなりハードな事があり、「自分、意識」等のキーワードでネット検索したりしながらいろいろ考えていました。どんなに素晴しい考えでも受け取る側がそれを受け取ることができる準備ができていないと、いわゆる馬の耳に念仏になってしまします。ちょうど私がこういう内容を受け入れる準備ができていたタイミングでもあったのだと思います。

天気が良いと気分が良くなり、雨が振ってきたら憂鬱な気持ちになり、道で犬を見て可愛いと思ったり、有名人の自伝を読んで憧れたり、道でいい車を見たら欲しくなり、自分の「心」と思っているものは実は偶然の出来事の寄せ集めでできています。

胃からは胃液が分泌され甲状腺からホルモンが分泌されるのと同じように、自分の「心」というのは脳から分泌される分泌物の1つに過ぎないということです。

多くの人は自分の「心」で人生の進むべき道を決めるのは当然と思っていますが、実はこれは風に吹かれて揺れる池の葉のようなものなのです。だから苦しくなってしまうのです。

自分の「心」をもう1つ上のレベルの視点から観察してみる、これが座禅というものらしいです。そしてその上のレベルの視点で人生の道を考える、というのが禅らしいです。

これは宗教でもなんでもありません。ただのテクニックです。

 「我思う、ゆえに我あり」、フランスの哲学者デカルトの言葉です。
多くの人はこの言葉の意味を、
自分は脳でいろいろな事を考えたり思ったりする、その考えや思いが「自分」であり、だから自分がある、
このように解釈していると思います。

でも、本当にそうでしょうか。脳で考えたり思ったこと、これは本当の自分でしょうか。

例えば先ほど私はタオバオ(中国最大のECモール)を見ていて偶然、小米というブランドの60インチの大型テレビが目に入ってきました。
wifiに接続もできて動画も見れる、60インチという大きさなのに価格も3000元(日本円で約4万円)でとてもお買い得です。
すごく欲しくなりました。心がとても興奮しもう少しでクリックして買ってしまいそうになりました。

果たしてこの、テレビを買いたいという心は本当の自分なのでしょうか。
ただまんまと心を煽って物を買わせる企業のゴミ情報に危うく引っ掛かりそうになっただけなのではないでしょうか。
冷静になって落ち着いて考えてみればそんなでかいテレビなんかいらないのです。
でもさっきは心が興奮し本当にもう少しで買ってしまうこところでした。

そしてヤフーニュースを見ていたら、大成功したIT社長の資産が数千億円、大きな自社ビル、立派な家、女優の恋人、そんなのが目に入ってきました。
するとまた私の心は激しく興奮し、中国で上場したい、有名人になって、大きな自社ビルや豪邸が欲しい、そんな気持ちになりました。

果たしてこの社長になって大成功したいという心は本当の自分なのでしょうか。

また、テレビを見ていてNHKスペシャルでイチロー特集を偶然見て、イチローの生き方に憧れる。

今度はyoutubeでラーメンの動画を見てラーメンが食べたくなった、
これは本当の自分でしょうか。

タオバオで大型テレビを見たのも、ヤフーニュースでIT社長のニュースを見たのも、テレビでイチローを見たのも、ラーメンを見たのもすべては偶然です。
たまたま見ただけです。何の必然性もありません。風がぴゅーっと吹いてきたのと同じです。

こんな偶然の出来事の寄せ集めでできた、何の必然性もない、まるで風に吹かれる池の上の木の葉のような「心」というものが本当の自分と言えるでしょうか。
私の答えははっきりとノーです。心なんか真の自分ではありません。

(ここでは「心」というのは脳で考えたり思ったりすることを「心」と言っています。)

ラーメンを見て、ラーメンの光が自分の目の網膜に映り、電気信号に変換され、脳でフィルターにかけられ、食べたいという思いがアウトプットされたのです。

お金持ちのIT社長をテレビで見て、自分も成功したいという思いが脳からアウトプットされたのです。

イチローを見て、プロフェッショナルな生き方に憧れるという思いが脳から分泌されたのです。

世の中の多くの人はこういう「心」を本当の自分だと思っています。そういう自分の思いや欲求を実現するためにこの社会で一生懸命頑張る、それが自分の生きがいであり人生であると思っています。

でも本当は何の必然性もない偶然のゴミ情報の寄せ集めの反応として、脳から「心」という分泌物が分泌されただけです。
「心」というのは脳からの分泌物にすぎないということです。

脳からでたらめに分泌される「心」というのは、まるで風に吹かれてゆらゆらと揺れる木の葉のようです。こういう状態を「無明」と言います。

脳のパワーは強力でとても優秀なので、私にまるで本当の現実のように思わさせて私を家来にしようとしてきます。うっかりすると脳が主人になり自分が家来になってしまいます。脳は体の一器官にすぎず、自分が主人なのです。

脳から分泌される「心」は決して本当の自分ではありません。世界を正しく認識していない脳の妄想にとらわれて、もしこのような不安定なものを本当の自分と考えて、それに基づいて行動していると、ゆらゆらと自分が激しく揺さぶられてとても苦しくなってしまいます。これが悩みや苦しみの根本原因になっているのです。

このような心(思いや考え)によって、例えば起業して上場して大成功して大金持ちになりたいという野心をもち、欲求や野心を実現することこそが自分の人生の目的である、そういうふうに誤った世界認識をする(そんなのは本当は偶然の風に吹かれた池の上の木の葉に過ぎないのです)、それを「自我執着」と言います。

この「自我執着」が人生の悩みや苦しみをとめどなく生じさせる根本的な原因なのです。

このような悩みや苦しみを軽減する方法があります。

それを人間は約2500年前からずっと考えてきました。一番最初にそれをやったのがブッダです。

その方法はすでに上述しましたが、

脳からでたらめに分泌される「心」なんて、真の自分ではない

そういう感覚を得ることで悩みや苦しみはだいぶ軽減されます。これは「無我」と言われています。

自分の「心」をもう一つ上の視点から観察するということです。これは「内観」と言います。

自分の心を観察しているもう一つ上の視点の自分、それこそが本当の自分「真我」です。

今の日本の仏教は伝来の過程でいろいろな人が改竄しすぎて煩雑になっていますが、煩雑なのは偽物です。真実はいつもシンプルです。宗教でもなんでもなく、

「自分の心をもう一つ上の視点から客観的に観察すると、すごく楽になるよ!」

ただそれだけの楽になる脳にやられてしまわないテクニックです。

例えばとても怖い夢を見ているとします。何か怪物に追いかけられている夢です。目が覚めてからこれは夢だったのかと思うのですが、実際に夢を見ている最中は本当の恐怖を感じています。

でも怪物に追いかけられている時に、これは夢なんだと自覚すればその恐怖はほとんどなくなってしまいます。

これは宗教でもなんでもなく、テクニックなので何度も何度も練習すればどんどん上手にできるようになります。

そしてただの体の器官である脳からの分泌物で、人生の行動を決めるのではなく、もっと真の自分に基づいて人生の行動を決定しなくてなりません。

おさらいです。

「自我執着」が悩みや苦しみを生む。

「心」をもう一つ上の視点から客観しする「真我」を知る。

脳で考えるのをストップして、ただ脳から分泌される思考を客観的に観察するのです。これがいわゆる瞑想ですが、もっと具体的な方法があります。

モーニングページという方法です。

朝起床したら真っ白なノートを開きます。そしてコーヒーでも飲みながらゆったりとリラックスします。そうするといろいろな思いが湧いてきます。それをひたすらノートに書き留めます。後で見返すわけではないのでただひたすら湧いてきたことをさらさらと書いていけばいいのです。これは自分の「心」を客観的に観察する内観の練習になります。

私も何度かやっているうちにとてもすっきりするので、コーヒーを飲みながら真っ白なノートを開き書き留めるのが今では毎朝の習慣になっています。とてもおすすめです。

負け組になりたくない、とエゴむき出しで努力してお金を稼がなくてはいけないと思い込んで、悩みや苦しみに苛まれていないでしょうか。

あの手この手を使って人の心や欲を煽って、相手に物を買わせる、それがあなたの本当の人生の目的でしょうか。

一生懸命頑張るのは素晴らしいことですが、「真我」の導く正しい方向へ向かって頑張っているのかどうか、ただ苦しみを生むだけの自我執着ではないのか、もう一度客観的にチェックしてみた方がよいかもしれませんよ!

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