見出し画像

人生ー意味について

哲学的なことって、皆さん興味はありますか?

大抵の人は、楽しいことや喜ばしいこと、得することに興味があることでしょう。一方で、哲学って気難しい感じがします。まあ気難しいのが哲学なのですが、実は出発点は世界がどうなっているのだろう?とか、人生ってなんだろう?ってことに通じていて、誰しもがどこかで関係する事なのです。

ここで、いろいろ引用して紹介することも可能でしょうけど、シンプルに今の自分がどう考えているか。そこにフォーカスして話を進めたいと思います。

生きる意味を問うのって、おそらく何か事件が必要なのでしょう。私の場合は、やはり他人の死でした。5歳のときに祖父がなくなったのです。病気でした。大人たちは、子供に死を隠そうとします。今でも覚えているのは、なんで中途半端なことを言ういうのだろうという気持ちです。星になるとか、いなくなっちゃっただのと説明する。その気持は分かるのですが、子供だって死に向き合うことは可能です。何しろ、日頃虫を引き裂いて動かなくなるのを見ているのですから。何か機能を失うことなのだと理解できます。私は、祖父の死を聞いて、「動かなくなってしまったのだ」と理解しました。
 葬式のあと、火葬場に向かいます。火葬を待つ間、少し外にでた私が見たものは白い煙でした。その時に、急に死がそこに映ったのです。おじいさんは、煙になって世に漂っていきました。そして思ったのです。「僕もいつかああなるのだ」と。

しばらく死については忘れていました。ところが中学生になって、急に実存の不思議に気が付きます。確か数学の授業だったと思うのです。実数は無限に存在します。有理数も無限です。数が永遠に続くとはどういうことか。果てがないという事に暗闇に吸い込まれるような気分になりました。考えていると不気味なのです。そして、そこから自分の実存が脅かされる気がしました。数字に続いて、無限に続く時間や空間が連想されます。自分が放り出された世界。それがこの世だと気がついたのです。
 永続性のある世界なのだと思うほどに、自分の存在が不安になります。ここに不思議な対比があるわけです。世界がぐにゃぐにゃとした混沌である事が、自分の存在を安定化し、世界がカッチリとした規律あるものであるほど、自己存在が危うくなります。それは恐らく、自己の死に対する認識なのでしょう。そして生きるという事について解釈になるのでしょう。

自分が死んだら世界はどうなると思いますか? 世界がそのまま永続すると考えると、自分がいなくなっても何も変わらないと考えられます。この自己の死に無関係に世界が続くと考えると、自分の生にどういう意味があるのか問たくなるのです。自分が世界に対して何かを残したいという感覚が芽生えます。それは自分の死後も世界が残っていると思っているからです。そして、その何かを残すという事が人生の意味に思えてくるのです。

人によって何を残そうとするのかは違うことでしょう。一般にはジーンとミームがあります。リチャード・ドーキンスは生物を利己的な遺伝子というコンセプトで説明しました。その一方で、カール・ポパーがいう世界3のような場では、ジーンではなくミーム(思考・コンセプト)が残され、流布され、進展してゆく存在であると主張しました。端的に言えば、子供を残すことか、作品を残す事に相当します。世界に何かを残すという事は自分が生きた証になると考えるからです。

世界が永続していくというコンセプトは、人に対して、生きた証を残させようとする駆動力になります。ところが、世界の永続性などどうして担保出来るのでしょうか?

動物たちは世界の永続性など感じてなさそうです。特定の状況下において、自分の欲求に最大限正直に振る舞っているかのようです。そして、過去も未来も思い悩んだりしません。彼らには今ここだけが重要ですから。ここで食事をたらふく食べてしまったら、明日飢えるかもしれない。そんなふうに考えることはありません。必要なだけ食べてしまいます。そして餓えたら、その時、餌を探すのです。逆にいえば、彼らは世界が絶えず食事を用意してくれていると信じているかのようです。もちろん、自然とは厳しいものです。時に、獲物が捕まらず餓えてしまう事が起こります。ですが、彼らは「あのとき、食べ尽くさずにとっておけば良かった」とは思わないでしょう。そして彼らは餓えに苦しみ、死んでいきます。その彼らは果たして不幸なのでしょうか。
 一方で、動物たちは繁殖においてもっとも活動的です。ほとんどの生活が繁殖のためにあると言ってもいいくらいでしょうか。むしろ、個体の存続など考えているようには思われません。繁殖を進めるために、オスは身体に栄養を取り込み力をつけます。そして交尾のチャンスを覗います。そうして、子供を作り、歳をとり、若いものに追われ、自力で餌が採れなくなった時、死に向かうわけです。結局、成獣とは繁殖する者という意味になるでしょう。動物たちは存在自体が子供を残すためにいるかのようです。子供を残すために成長し、残せなくなると世界から退場する。それが動物たちの運命でしょうか。

では、人はどうなのか。現代人は人生の前半こそ、動物と同じかのようです。20歳にもなれば、繁殖可能となります。実際、晩婚が進んでいるとは言え、20代、30代において結婚し、子供を産み育てます。そして世界から退場する。。。。いえ、しません。人は子育てが必要な世界を作り出しました。20歳で子供を生んだとしても、子供が大人になるまでに20年位かかるわけです。その間ずっと面倒をみる事になりました。それでも、40代、50代くらいで終わります。動物的世界観でいえば、そこで死ぬのが通例です。しかし、人は80歳程度まで生きることになったのです。ここに生き物としての矛盾が生じます。一説には孫ないしは地域社会の面倒をみるという役割が生じたためと言われていますが、それにしても、繁殖しなくなってから同じ程度生きるというのは相当に不可思議です。

すると、人は再度、生きる意味を問い始めます。自分の存在意義はなにか。確かに子供はいる。ならばすぐにでも死ねるだろう。だが、そうは思わないものです。生にしがみつきます。どんなに理屈で理解していても、死に向かう時、生物はそれを可能な限り回避しようと行動します。高僧と呼ばれた人ですら、最後を目前に「死にとうない」と言ったといいます。多かれ、少なかれ、何らかの後悔を抱えているようです。

結局の所、最初の疑問に戻ります。そう、人生の意味とはなにか? です。何かを残そうとする事、それは確かに存在しますし、やり遂げられることもあるでしょう。しかし、それは全て世界が永続するという仮定のもとです。

世界の永続性は誰にも担保できません。生きている人は死がわかりません。死は体験不可能です。よって死後も今の世界が持続してゆくのか、誰にもわかりません。世界がここにあるという事だって、確実とは言い難いのです。だからこそ、哲学者は世界の実存性について考えています。そして、実在しないという方が説明上、整合性が取れるというのが現代哲学の結論です。そんなことを言われてもって思いますが。。

世界が永続的ではないとしたら、人生の意義として何かを残すという事そのものに意味はなくなります。残しても、死とともに消えゆくならば、一時の満足に過ぎないからです。ニヒリズムに陥ってしまいます。そんなことなら、努力なども無駄ではないかと。残すための行動も無駄ではないかと。

これを乗り越えるには、私には意思しかないと思うのです。自分の活動が結果として無意味だとしても、その時、その時の感覚において、自分の生を実感できればそれで良しとしたい。それをするには意思が必要となります。置かれた状況において意思を発揮する事。それが出来るかどうかは自分の有り様次第です。そして、有り様を決めるのは自分ではないでしょうか。

世界が永続的であるとみなして、何かを残すことに意義を見出そうとする。そういう価値観もあるでしょう。ただ、どこまで行っても、何かを残したと言い切れるものがあるのかどうか。途中で終わったとしても、悔いはないのか。それをどうして決めるのか。それは自分の価値観でしょう。
 また、世界が永続的でないとしても、何かをやることに意義を見出す。そういう価値観もあるでしょう。この時問題なのは、何を意義があるとみなすかです。自己の価値観がある程度定まらないと、このような信条を是認できません。

どちらにしても、人生の意義とは、自分の意思ではないか。私にはそう思えるのです。その時、その場で何が出来るのか。その結果として、何かが残る。その積み重ねが人生の意義となるのでしょう。

死に際して悔いを残さないのは無理ではないか。私はそう思います。ただ、その悔いを小さくすることは出来る。そのために何が出来るのか。それはまさに今日、今、この瞬間に有意義と思う事をする事でしょう。どんなに小さくても、そこに喜びがあるならば、そこに楽しみがあるならば、それが可能ならば、手をつける事です。そして、無意味なことをやめること。自分の価値観とそぐわないことばかりしていたら、後悔することは目に見えています。

皆さんは、人生の意義、どう思いますか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?