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井上ニコル追悼特別号「ぐぐちゃん」

この号は、私の「どくだみちゃんとふしばな」を購読している人にはふつうのどくふしとして届きますし、そうでない方にも無料で読めるようにアップしておきます。

井上ニコルさんは私の友人で、クラシックの天才マネージャーでした。
そして彼の書く奇妙な短編は荒削りですが、多くのファンを持っていました。
noteにも他の短編を発表しているので、よかったら読んでみてください。

彼はマネージメントしているアーティストが来日しているときは、夜寝なかったそうです。集中力を高めて、演奏も一音も聴きのがさなかったそうです。
だから多くの演奏家が彼を信頼しました。
その狂気まじりの集中力ゆえに、彼は神経症を長い間わずらっていて、薬を飲み続け、心臓が弱ってしまい、ご両親がお買い物に出ているときに発作が起きて、急逝しました。
考えられないような美しい顔で(お母さまが『あんな男前の顔は見たことがなかった』とおっしゃっていました 笑)、眠っているようだったそうです。

でも誰もが思ったのです。
「あんな命を削るような生き方で、長生きするはずはない」と。
お母さんはおっしゃっていました。
「ほんとうに精一杯生きたんですよ。生き切ったんだと思います。そんなにがんばったんだし生き切ったから、もういいよって神様が呼んでくれたんだと思います」

私たち家族は彼と三回いっしょに旅をし、おしゃべりし、笑い、怖い話や人生の話をし、濃縮された時を過ごしました。
彼は私のほんとうの、ほんものの、読者でした。
何を書いてもほんとうに書きたかったことをわかってくれるのです。
私の書いているものには光もあるけれど、闇もあります。書くときには闘いや苦しみもあります。だからほんとうの読者を失うのは、とてもつらいのです。

ここは私の読者のページです。
お好みもあるでしょうから、もちろん読まなくてもけっこうです。
でも、もし「狂気」「天才」に触れたかったら、いつか読んでみてください。この人の文章の中にある独特なキレを、私は逆立ちしても書くことができません。
ひとりの人が精一杯生き切ったということ、なにかの天才だったこと。ものすごい欠損を抱えながら、妥協せずに人生に立ち向かったこと。その人がこういう「魅力あるシャープな」短編を書いたということ、お母さまの許可を得て、ただ残しておきたく思います。
誤字脱字はたっぷりありますが、そして改行も読みにくいですが、彼の書いたそのままに掲載しておきます。モデルがいる実話のように見えますが、いろいろな人から聞いた話と自分の空想と体験をおりまぜた、全くの創作だと生前彼は言っていました。

井上さん、さようなら。すばらしい文章と清らかな時間をありがとう。


ぐぐちゃん                     井上ニコル

 

偶然ですが、

昨夜、夜半、孤独の中で、

 僕は蓋、

(錆びたマンホールの蓋を想像していただきたい)

をした”過去”に、じいっ、と目を向けていました。

 とにかく、じいっ、と。

皆、あの“過去”に蓋、

をしています。

 沈黙し、開けられない蓋。

 でも僕は、今ならなんとか蓋、をこじ開ける、

という作業が出来るのでないか、

と思ったのです。

 いっときは、世の中の注目を集めたこともあるので、

驚かれる方もいらっしゃるかも知れません。

           ☆

 なぜ敢えて、

“過去”

の世界を覗くのか?

 冒険か、

 やってみないとわからないか、

 おもしろいかもしれないか、

 いや、恐ろしいことかもしれないか、

 もしかして身震いすることか、

 それともやはり悩み苦しみ悶えることか。

 僕はその“過去”、

の世界の傍観者として、いきなり??年前に遡り、

 そしてひたすら書くのです。

 ただ、それだけです。

 それでは、さようなら。

           ☆   

 念願の大手レコード会社のメジャー・レーベルRとも契約し、日本のクラシック界での若手ではまずまず名の知れたピアニストK、

(といっても、所詮、クラシック音楽というマイナーな世界、このくらいで世間を騒がすことはない。)

は、コンサートの仕事などでホテルや旅館といったところに外泊するときには間違いなくぐぐちゃんを持ち歩いていた。

 Kの必需品である。

 自分の衣装類に楽譜や着替えと洗面具等が入った黒の古びたソフトキャリーケースと薄汚れた黒のボストンバッグが彼の荷物だったのだが、ボストンバッグの中身といったらまるまるぐぐちゃんなのであった。

 ぐぐちゃんとは、タオルケットのような子供用の熊と狸の絵のあるかるい毛布代わりのもの。まあ夏の昼間に子供が寝てしまったときにかけてあげるものだ。ぐぐちゃんという名は、Kが付けた。

 ある朝、心地よい風が吹いていたので、Kは、薄い皺々でグレーと白のストライプのパジャマ姿のままベランダの柵に両肘をつき、両手を重ねた上に顎をのせて、ぽけっと、と、澄み切った青空を眺めていたのだ。

 そしたら、はっ、とその名を思いついたのだ。

 まるで天からの啓示のように。

 そしてKは、ぐぐちゃんなしでは安眠することができなかった。Kは、ぐぐちゃんにくるまると、すやすや赤ん坊みたいに眠れるのだった。

 

            ☆

 またKは、二十代半ばという年齢でおしゃれでなく(そういったことにまったく無頓着なのだ。)、背も高くなかったが、アウトロー的野性さを漂わせ、痩せ細っていて、肌が透き通ったように白く、長めの栗色の捲毛(栗色の髪は、関係ないかもしれないが、捲毛は、天才に多いとよく言われている。)で、ツリ目の色素の薄い瞳は獰猛に鋭く、なかなかハンサムな顔立ちで、まあ特に注目すべき点があるとすれば鷲鼻だということだ。この鷲鼻は、ショパンや数多くの作曲家がそうであったので、クラシックのピアニストに適していると言えよう。

 それらが高じて、Kが好む音大生の多くの女を、Kは必ずといっていいほど、一両日中に、その女に彼氏がいるの、いないのに関わらずに落とすことが出来た。

 音大の女なんて、大体そんなもんだ。

 ピアノがとびぬけて(Kのようにプロフェッショナルに)弾けて、かっこいい男であればすぐそっちにすぐ靡いてしまう。彼女らは、まるで思春期のようにあこがれを抱いているのだから。

           ☆

 Kは、ブルガリアのソフィアへ2年留学していたので、

(ソフィアで、Gという頭の禿げた名教授にクラシック音楽とはなにか?=ピアノ演奏とはなにか? からテクニックまで、基本から度返しして、徹底的に厳しく叩き込まれた。Kもまたそれに必死で応えた。)

日本に帰ってきても音大に籍を置いていた。音楽大学の3年生だ。

 そして音大の近くの碧色の煉瓦タイルで覆われている鉄筋3階建ての完全防音のアパートの3階の角部屋に住んでいた。9部屋のなんていうか若者向きの個性的なアパートだ。当時は、この様なアパートが流行っていた。

 Kがソフィア帰り、

(その時は新築だったし、天井は斜めで高く、壁は真っ白で、床はフローリングで、1LDKだが、結構広く、おまけに広々とした屋根裏部屋のようなロフトまで付いていて、そこで眠れるし、小さな天窓もあったので、Kは、一目でそのアパートを気に入って契約したのだ。)

から住んでいるところだ。

 そしてKには女がいた。

           ☆

 この女には、彼氏がいたのだが、数多くの音大生の女と同じく、まんまとKに落とされた。

 誰かのコンサート(確か、同音大の教授のピアノ・リサイタルだったと思う。大したことない。チケットを買わされ、強制的に行かされるだけだ。)の休憩中のロビーで、この女とばったり会ったKは、

「いい女じゃないか」。

と女の耳元でゾッ、とするほど妖しく囁いたのだ。

(ちょうど肩までかかる黒髪、くりっ、とした大きな黒い瞳、ぽちゃっ、とした頬、大きなバスト、ふっくらとしたお尻、脚こそ細くはなかったが、実に可愛いタイプの女だった。そしてKが最もこの女に惹かれたのは、その女の声と話し方である。その幼い声と幼い話し方は、Kにとってのセックスの対象としては最高、いやNo.1だった。)

 もちろん女は、

 なに〜この人!

と頭にきたのだが、

女は、彼女自身の、

あそこ、

が、

一瞬で、

かつてないほどに濡れてしまっている、

ことに、唖然とした。

 そしてその晩のうちに、きっぱりと、なかなかのイケメンで性格も素直でよいクラスメイトの男と別れたというのだ。もちろん男は、別れたくない、突然、そんなことをいわれても困る、僕のどこがいけないのか? 理由を聞かせてほしい、時間もくれないだろうか? と女に必死に懇願したのだが、女は、理由を言えるわけがなく決意は、暗影に潜む石のように硬かった。

 そういうわけで女は、当然、音大生(ピアノ科の2年生だった。)で、女のアパートも近所あったので、Kのアパートと女のアパートとを行ったり、来たり。 

            ☆

 女は、忙しくなった。

 でも同棲という言葉の方がふさわしいかもしれない。なにしろKは、人一倍さみしがりやで、この女なしでは生きていけないのだ。

 女がいないとKは、部屋中のものを蹴飛ばしたり、CDを壁に投げつけたりと、そのような破滅的な行為を繰り返した。

 また女もわがままなKに対して献身的だった、というよりも女は、Kに対して、

 私がいなくちゃこんなひどいことになっちゃう!

と内心嬉しかった。

 私がちゃんとついていなければ、と。

 

            ☆

 Kと女のセックスは、毎晩、ジェットコースターに乗っているようなものだった。どうしても激しく変態の方向へ無理やりにでももっていってしまうKの性癖(Kは、犯す、いや犯しまくる、という行為をも最も好んでいた。)を、女は、初めこそびっくりするのだが、絶叫・悲鳴を上げながら、どんなことでも受け入れ、なんとか乗り越えることで、お互いより強固な絆で結びついていくのだった。

 またKの性格の良いところから悪いところまでもすべて女はこよなく愛し、

Kもまた女をあたかも母親兼幼妻のように、

(Kは、スーパーマザコンだった。Kの母親は、Kが高校2年生の春に乳がんで死んでしまったけれど。)

ふかく愛していた。Kは、女に甘え、女は、よしよし、となんでもKのいうことを聞いて、Kの頭を撫ぜてあげるのだった。

 2人は、出会って、まだ同棲したばかりなのに結婚してこのまま幸せに暮らそう、と誓い合っていた。

 その誓いは、巨大な夕日のように美しかった。

            ☆

 そして1年の歳月が過ぎた。

          ☆

 Kと女の関係を知る誰もがKとその女はいずれ結婚するだろう、と思っていた。その噂話でもちきりになった。また当人同士も、その誓いは、永遠に続くものだと思い込んでいた。それほど、はたから見ても仲睦まじかったのである。

            ☆

 ある朝、女は、Kが留守中にぐぐちゃんを洗濯機で丸洗いした。

 たっぷり液体洗剤を入れて。

 まあこれ以上ないくらい晴れやかな風のあるよい天気だったし、ぐぐちゃんは湿っていて、なにしろ臭かったので、

(よく嗅ぐと悪臭そのもの、煙草とアルコールと汗と埃の匂いが奇妙に交じった、またそこには、Kの精液の臭い、また数々の女の臭いさえあった。もちろん女自身の匂いも。)

以前からとても気になっていたのだ。

 そして洗濯機が止まり、丸洗いが終わると、女は、念には念をいれ、またたっぷり液体洗剤を入れて、さらにもう1回ぐぐちゃんを洗濯機で丸洗いした。

 そしてバタン、バタン、バタン、バタン、と皺をとり、 ベランダの物干し竿に専用の洗濯バサミで固定し、干した。

 夏の太陽の強い陽射しの中、風にひらひらひらひらと揺られているぐぐちゃんは、見違えるほど爽やかに、また幸せそのものにも感じられた。

 Kもさぞ喜んでくれる!

女は心から思った。

 また女は、生来綺麗好きでもあったので、鼻歌を歌いながら(それはKがまさしく今、練習している曲だ。)部屋中のありとあらゆる場所の埃をはらいおとし、掃除機をかけ、窓をクリーナーで拭き、床を雑巾がけし、ワックスをかけ、Kのカワイのグランドピアノも専用の液と布で丁寧に拭いた。

 半日以上かけてだ。

 Kの部屋全体がぴかぴかで、光って見えるほど清潔になった。女は、1LDK「ロフト付き」とはいえ完璧にクリーンにしたのだ。

 女は、満足した。

 女は、ある意味、完璧主義者だった。

           ☆

   

  Kが、この女とは別の音大生の女と”密会”するために、

(勿論Kは、女に嘘をついていた。Kは、Kと同年齢でKのマネージメントをしているTという男と駅前の喫茶店で打ち合わせだ、久しぶりだし、昼飯も食うので遅くなる。というようなことを女に言った。)

いつものよれよれの茶色のシャツに萎びたチャコールグレーのジーンズ、汚れた黒の革靴を履いて急いで出て行った。

            ☆

 その頃、Tは、八ヶ岳音楽祭の事務局があるS環境開発株式会社内のオフィスにいた。54Fのビルディングの最上階、都会が一望出来るオフィスで、代表取締役であるS氏とKについてかなり込み入った話をしていた。

 S氏は、白髪の見るからにジェントルマンである。そのジェントルマンさが、Sの社会的地位だけなく、ずば抜けた賢さ、を表している。

 S氏のパパスのグレーのカジュアルな夏物のスーツにブルーのシャツ、それと革靴は、よく磨れていてふかいブルーが美しい。時たま、ちらっ、と見えるロジン・クラシックの腕時計が、K氏のセンスのよさを象徴していた。また微かに柑橘系のパヒュームの匂いがした。

 Tは、ケンゾーのトータルコーディネイトのファッション、というより、Tはケンゾーしか持ち合わせていない。今日は、コットンの真っ白なTシャツにブルージーンズである。また、ダークブラウンのスエードの革靴を履いている。時計は、カジュアルなI.T.A.。

 不思議なことにTは、スーツを一切着たことがない。

 その理由は誰もしらないが、誰も聞かない。ただ、Tは、普段着がとってもよく似合っていたのである。

 もちろん変わりもので、

”変人扱い”

も受けたが。

 それに、Tは、仕事では一匹狼だった。

 事務所の他の連中とは違って、

常に一人で行動した。

            ☆

 Tは、S氏を尊敬していた。

 S氏は、Tをクラシック業界で、これほど有能な人材はいない、英語も堪能で、しかも若い、と思っていた。

 それにS氏は、

“普通ではない”

人材を必要としていた。

            ☆

 3日前のことである。

 S氏は、TをS環境開発株式会社に引き抜こうと、

「夕食に六本木で鉄板焼きでも食べないか? 」。

とTを誘い、もちろんS氏の支払いで、2人で、神戸牛のフルコースを食べた。

 その席で、S氏は、

「Tくん、うちに来ないか? 今の給料の2倍を出すし、もちろんボーナスも給料の4倍出そう。今の事務所で、あなたが結婚でもし、子供をもったら、生活はどうなるんだろう? そういう安定した暮らしを手に入れたくないか? 」

とまず現実的な話をした。

 S氏は続けた。

「それに今の事務所で、あなたの実力を存分に発揮させることが出来るだろうか? うちは、皆が知っている通り、世界トップクラスのアーティストたちだけで、八ヶ岳音楽祭のプロジェクトをしている。それだけではなく、アメリカ、ヨーロッパ各地で音楽祭を手がけることになった。それをあなたに手伝ってほしい、あなたにうちのニューヨークのオフィスでプロデューサーをしてほしい、とかねてから思っていたんだ。あなたにとって相応しいし、働きがいもあると思うのだが」。

と言った。

 でも、Tは、間髪入れず、

「今の事務所なんて、どうでもいい、はっきり申し上げて、どうなったっていいのです。そんなこと僕の知ったことではないです。

 僕がニューヨークで、また世界的なアーティスト、しかもその中でもトップクラスを集めてプロデュースなんてこの上なくめぐまれた、ことです。そんなチャンス二度とありえないでしょう」。

 Tは、一呼吸おいて続けた。

「ただ僕は、Kを見捨てるわけにはいきません。Kとまだ東大生のFという友人がいて、この3人で、誰もが不可能だ、と思うようなとんでもない夢を見てます。そういうのが好きなんです。

 僕は、面倒なのでまったく独立も考えてたことがないし、まったく非現実的であるのですが、それが僕の人生すべてであり、僕には本当に、その夢しか見えない、何故なのか? 僕自身分かりません。ただ幼い頃からただ強く望んだ生き方しか出来ないことは確かです。ある意味、不器用だし、片端的考え方です」。

と正直に言った。

 そしたら、S氏は、残念そうに、ため息をついたが、

Tに、

「あなたにとって夢とは、どういった意味なんだろう? 」。

と言った。

 Tは、なんだ、夢とは? 哲学的に考えたことがないので、とあらためて自分自身に問うた。そして、

「どれだけ僕らの様々な犠牲をはらおうと、この手で、この手で全力を尽くして摑かむ、、、また摑かんだら、また別のものを摑かむ算段をし、また全力を尽くして、さらに摑かむ、それだけ価値あるもの、K、F、僕の希望、でもあり、僕らの”生きること”の象徴なのです」。

 と言った。

 S氏は、目の前の鉄板でシェフが楽しそうにまだ生簀から出したばっかりの活きている伊勢海老を見事に捌いて、じゅあー、と食欲をそそる匂いと煙をたてて焼いているのをじっくりと、しばらく見つめていたが、

「やれやれ、あなたには、負けたよ。では、私もあなた方の夢の一端を担おうとするか? 

 Kか? 来週、私のオフィスに来なさい」。

と言ったのである。

 Tは、奇蹟か? と思った。

 そしてTは、1LDKの自宅のアパートに帰ると、Kの演奏しているカセットテープを聴きながら、

“どうやったらこの奇蹟を確実に手に入れられるんだろう”

とハイライトを吸いながら、考え抜いた。Tは、この煙草が好きだった。

 Tは、こういう一大事の際には、一人で考えて考えて考え抜く。今回は、3日間徹夜で考えた。

           ☆

 そしてTは、S氏のオフィスに朝一番で行き、長い長い交渉をしていたのである。

           ☆

 交渉後、

 Tは、Fに電話し、

「八ヶ岳音楽祭の初日で、オープニング・リサイタルにKの出演が決まった、日本人初だ」。

と言った。

「ええっつ、あの音楽祭に? しかもオープニングで? 」。

Fは、びっくりして言った。

 Tが、興奮気味に、

「それに破格の条件だよ。なんと言っても曲目が自由なんだ。そこを交渉するのは大変だった。プログラミングもあるからKに直接会って伝えたい、明日の夜、19:00頃にKのアパートの前に来てくれないか? Kがいったいどんな顔をするか? 楽しみだ」。

 言うと、

 Fは、

「すげえ、 Kが八ヶ岳か! 明日、もちろん行きます。驚かせましょう。また徹夜ですね」。

と興奮し、楽しそうに言った。

 Tは、Fのことをなんでこいつもこんなトントン拍子に語り合えるあえるのだろう? そうとう頭の回転が早いんだな、まったくすごい奴だ、といつも感じていた。

 留年しているとはいえ、東大だ。でも、Tは、東大卒の人間と何人か会ったが、役立たずの使えない奴ばかりだった。Fは、相当、変わった奴で、どこか浮世離れしていて、人の身になって行動する。それにクラシックだけではなく、ジャズも詳しいTの無二の親友でもあった。

 Fは、よくジャズのCDをTのためにセレクトしてくれ、Tに会う度に、FのCDを持ってきてくれたのだが、まったくもって趣味のよいものばかりだった。

 服装もブランドものは、一切着ないが、おしゃれに見えるし、何より、いつもその優しそうな表情をしている。

 それもセンスのうちだ。

           ☆

  Fは、Tよりも背が高く、Tは、Kよりも背が高い。FもTも筋肉質で、Kほど痩せ細っていないが、すらっとしていた。

 それに、Fは、Kがソフィアに留学中に、Kのアパルトメントに2週間滞在し、意気投合した。Kの無二の親友である。

 KとTと同年齢で、FがKの演奏に惚れ込んだことも関係しているかもしれない。

 また、Kのことを完璧理解している。

 頭のてっぺんから尻尾までだ。

 こんな話もある。

 KとFは、Kのソフィアのアパルトメントでトイレットペーパーがきれてしまった、ことに気がついた。ケツを拭くものがなくなったのである。

 2人ともまったく金がなかった。

 そこで、Kの知恵で、ソフィアにある唯一の日本の高級ホテルのトイレにボストンバックを持って行き、そのトイレットペーパーを大量に2人で盗んできたほどだ。

「アー、ハッハッハッハッー!」。

と大笑いしながら。

           ☆

 Fは、八ヶ岳の話をする為に、早速、その日にJというFの彼女をイタリアンのディナーに誘った。

 Jは女のクラスメイトである。女の、無二とはいえないが、秘密を分かち合える親友だ。

(Jは、ほっそりしていてモデルのようであり、もちろんの女よりも背は高かったし、髪も長く、何故か、いつも美しくきれいな足のラインに沿った豹柄のパンツを履いていた。またそれがよく似合うのだ。不思議なのは、Jは女と同じような目をしていた。目が同じようだと、姉妹ならまだ解るが、双子に間違われたくらいだ。Jは美しかったが、女は可愛いというタイプでまったく異なるのだが。)

           ☆

 どうでもいいことかもしれないが、Jは、初め、Tのことを好きだった。Tは、そのことを感じてはいたが、Tは、FがJを好きなのをなんとなく知っていた。

 それで、Tは、ある日、Jを事務所の近くのバーに誘い(Jは、心から嬉しかった。)ワイルドターキー8をダブルで飲みながら、Jに、

「Fと付き合ってみない? 」。

と言った。

 Jは、一瞬、何言っているだろう? Tくんお酒に強いのに酔っ払っているのかな? Tくんは? と思ったが、Tくんの言う通りしてもいいなかな? Fくんも私に優しいし、頭良さそう。何よりTくんの言うことは間違いないし、と思って、Fと付き合うことを決断したのである。

その決断は正しかった。

 FのJに対する優しさは本物だった。

            ☆

 Jが、

「ジュース飲みたい!」。

と言ったら、Fは、急いでコンビニエンスアLに行き、ものすごい数のジュースを買ってきて、

「この中から選んで」。

と言い、Jが驚くくらいだ。

 Fは、Jのためならなんだって尽くした。

 ジュースことなんて可愛いものだけれど、どれも単純明解だ。

 Jが、

「Jが自転車に乗りたい」。

と言ったら、自転車2台を買ってきて、Jとサイクリングした。

(このサイクリングは、Fにとって最高の思い出となる。)

Fは、医者の息子だったが、必要最低限の生活の仕送りで暮らしていたので、余分なお金がなく、Jと一緒にいる時以外は、陰で食パンだけを食べて、水道水を飲んでいた、というのに。

 Fは、JだけでなくK、T、やKの女、という、愛情のある人のためには、素直に、またはっ、と相手にさせれる、発想を生まれながらにもっていた。

 それに、誰とでも仲良く出来る、という器用というべきか? これも一種の才能だ。KやTに出来っこない。

            ☆

 後に、FはTに、

「Jがいなかったら、オレは、あまりにも現実離れして、壊れていた」。

とTに告白することになる。

 Jは、イタリアンレストランで目をキラキラと輝かせながら言った。

 Fは、そのJの目の輝き方が大好きだった。

「やっぱりさあ、Tくんってすごいね、切れる男は違うね! 八ヶ岳は、当然、Fくん行くんでしょう。私も行こうかな。

 なんか、君たちルパン三世だよ。Kくんがルパン三世、Fくんが、次元大介、Tくんが、石川五エ門、これ笑えない?」。

Fは、上機嫌で、

「ハハハハハ! それ笑えるな。Kは、ルパン三世のレーザーディスクばっかり観てるしな」。

 そして、スパゲッテイボンゴレとスパゲテッティアラビアータを仲良く、小皿に分けて食べた。

 Fがこの店にくるのは初めてだったので、その味をとても心配だったが、すごく美味しかったので、

「これはうまい! マジうま!」

とFは、大声で言った。

 店の客たちは、TとJの方をいっせいに向いて笑った。厨房からも笑い声が聞こえた。

 Kの八ヶ岳出演決定祝のシャンパンのグラスもったJは、顔を真っ赤にして下を向いた。

            ☆

  そして時間を15:30頃に戻すと、

 Kは、そんな自分自身の一大事をまったく知らないで、

(Kは、音楽以外、まったくの阿呆だった。) 

音大生の女との“密会”から帰ってくると、アパートの脇にある砂利が敷かれている駐車場に愛車のホンダの白い中古車を止めた。そして車から出て、キイをし、外からアパートを見上げた。

 女の可愛い顔を思い浮かべながら。

 女がベランダにいて、Kに向かって嬉しそうに手を振っているのではないか、と思って。

 そしたら女はいなかった。

 Kは、ちょっと残念だった。

 もちろんそこまではなにも問題はない。別に女が、四六時中ベランダに立っているわけではないのだ。

 しかしKは、愕然とした。

 まるで世界中が超スローモーションで動いているかのような錯覚に襲われた。

 Kは、首を傾げ、

両目を見開き、

口をぽかん、と開け、

確認を、

また再確認をした。

 なにかが、、、

なにかが、、、

間違っているのではないか、と。

            ☆

 なっ、なっ、んと、ぐぐちゃんが、ベランダに干されているではないか!

 Kは、頭を抱え込み、髪をかき乱し、

一瞬、唸ると、

癇癪を起こし、叫んだ。

「なっつ、なにやってんだよーあののののおっ、ばっ、かっ、ばかばかやろうがあああああああ!」。

 Kは、あわてて3階までコンクリートの階段をダッシュでかけあがり、部屋の前まで行くと、インターホンではなく、スチール製の玄関ドアを、

 ガン!ガン!ガン!、ガン!ガン!ガン!、ガン!ガン!ガン!、

と拳で思いっきり叩いた。

 女は、疲れきって汗の滲んだ緑と白のストライプのロングTシャツにベージュの綿パンに白のソックス、そしてお気に入りの薄汚れた淡いピンクのエプロンで、黒のソファにまったく無防備にごろんと寝転んで熟睡していたのだが、その、

 ガン!ガン!ガン!、ガン!ガン!ガン!、ガン!ガン!ガン!、

という恐ろしい物音でとび起きた。 

           ☆

 誰だろ?????

 こわ〜い!

と思いながら女は、のぞき窓からドアの外にいる人物を注意深くゆっくり右目で観察した。

            ☆

 そしたらKではないか!!!

 しかもKは、怒った赤鬼のような形相で、今度は、ドアを、

 バン!バン!バン!バン!バン!バン!、

と蹴飛ばしていた。

 女は、ドアの鍵を開けた。

「どうしたのK?」。

と女はひどく怯えた小鳥のような可愛い声でおそるおそる聞いた。

 そしたらKは、ドアをバアアアアアン!!!!、

と完全に開け、

(壊れたかと思った!)

女の右の頬を思いっきり、左の拳で殴った。

|||この事件で出来た女の右の頬の痣は一生残ることになる。

 女はくずれおちるように、どっすん!、という鈍い音とともに倒れた。

 それでもKは、女に容赦なく蹴りを一発いれた。

「なんなんだよー!!!!!ぐぐちゃんになにをしたんだあああああああああああああ!!!!!!!!」。

 Kは、怒鳴ると、足早にベランダに行き、ぐぐちゃんを抱きしめた。

 しかし、ぐぐちゃんは、もうKの望むぐぐちゃんではなかった。

 Kは、時間そのものが完全に静止してしまった、かのような錯覚に陥った。只々、心臓が、どく、どく、どく、どく、と鼓動を打っている。

 女は、なにがなんだかわけがわからず玄関で臼のようにうずくまり号泣していた。

            ☆

「なんてことしてくれたんだ!!!!!ぐぐちゃんを洗ったのかあああああああ!!!!!!!!!」。

  Kは、ヒステリーそのもので怒鳴り散らした。

 女は、

「湿っぽかったし、臭かったから洗っただけじゃない!」。

と金切り声を上げた。

 Kは、また癇癪をおこし、今度は、玄関の横にある台所の白い壁を右の拳で思いっきり殴った。壁は、ベニア板だったので、ものすごく不気味な音とともに大きな穴が空いた。

 さいわいKの右手にダメージはなかった。

 なにしろKは、ピアニストだ。

「大丈夫? K」。

 女は、涙ながらに言った。

Kは、頭を抱え、発狂し、また怒鳴った。

「なんでぐぐちゃんを洗ったんだだだだだだだだ!!!!!!!オレは、ぐぐちゃんのその湿っぽさと、その匂いが好きなんだ!!!!!!!!!!なんてことしたんだああああああ!!!!!!!!!!!」。

 女は、泣き喚きながら、

「もう別れる!」。

 と言って荷物をまとめてアパートから出ていった。

 Kは、悲痛に悲しんだ。

女のことよりも、ぐぐちゃんのことを。

           ☆

 そしてKは、この事件のショックから立ち直れなくなり、夜も眠れず、ピアノも弾けなくなって、重症の鬱病と診断され入院し、コンサートはすべてキャンセルされた。もちろん、八ヶ岳音楽祭のオープニング・リサイタルもだ。

           ☆

 FとTは、目の前が真っ暗になった。また夢を一つ摑んだばっかりだった、というのに、、、

 “まさに空が裂けて、禍が天から降ってきた”

かのようだった。

 理由が、理由だ、、、

 そんなことで、

 そんなアホなことで、、、、

なんでまた、、、

 

           ☆

 Kは、入院中、別の女どもに、

(Kには、7人のセックスフレンドがいた。)

毛布代わりの子供用のタオルケットを何枚も買ってこさせ、ぐぐちゃんをつくり始めた。

 ゆっくり、ゆっくり、じわじわ、じわじわ、と。

 精神病院の院長には、Kの父親、

(この方もKの父親だけあって、かなり問題がある。男子高の音楽の先生をしているが、話すとキリがないので後に話そうと思う。)

から特別に事情を話して。

 でも、只々、Kが毎日、その子供用のタオルケットにくるまっているだけだ。

 もちろん日中もタオルケットにくるまりっぱなしで、くるままったまま病院内の中庭にある喫煙所ヘラークを吸いに行ったり、くるまったまま売店に行ったり、くるまったままTVを観に行ったりなどしていた。夜は、夜で、くるまったままマスターベーションをしたり、さらに、夜勤の若い看護婦をくどいて、くるまったままセックスしていていたほどだ。

           ☆

 そして新しいぐぐちゃんが生まれるまでなんと6年を要した。

 湿っぽく、臭いぐぐちゃんをつくるのに。

 

 この間、Kのドキュメンタリー番組の制作も始まった。

「オレは、神に見放された」。

「死んでしまいたい」。

「オレは、何のために生まれてきたのか?」。

 とかわけのわかないことを繰り返し言っていた。

でもKは、ようやく安眠することが出来て、すっかり鬱病も治り、ぐぐちゃんとともに退院した。

           ☆

 退院後、3年間みっちり練習し、

(このうちの2年間は、ソフィア滞在し、恩師のG教授から、莫大な内容、かつテクニックについての非常に厳しいレッスンを受けた。あのG教授が満足したほどだ。)

Kは、あまりの過酷な日々に、帰国後、ひどいヘルペス性の顔面麻痺にもなった。右と左の顔のバランスが崩れ、一時入院したほどだ。

 入院中に見舞いに来た女の一人には、

「可笑しい! Kの顔!」

と大笑いされたくらいだ。

 まあ顔面麻痺は、なんとか本番までに回復した。

 どうでもよいことかも知れないが、そこまで彼は集中して、真撃に音楽と向き合っていたのだ。

           ☆

  

 そしてKの復帰コンサートの日になった。

 その日は、あいにく朝からずっと止むことのない土砂降りの雨だったのだが、すでにチケット発売日にたった30分あまりで売り切れてていたので、満席の聴衆が通常のコンサートホール以上に大きな期待と興奮で騒めいていた。

大入り袋をもちろんK、指揮者、オーケストラとスタッフ全員に配られたので、皆、固唾を呑んで、それぞれの配置についた。

(Kは、オーケストラとのリハーサルでは、どこまでも思慮深く、何度も演奏を止めて指揮者と話し合い、きっちりと微調整していた。

 後は、本番で、自分を超えるなにかを出すことが、

出来るか?

出来ないか?

だ。)

 なぜか? 右の頬に痣のある女も真っ赤なドレスを着て、1階の左後ろ隅の客席に座っていた。どうしてもKの晴れ舞台を観たかったのだろうか? まだKに未練があったのだろうか? 大きな謎である。

           ☆

 そして開演時刻になった。

 Kは、Tに思いっ切り背中を叩かれると、その獰猛な鋭い目をぱっと見開きバックステージから出た。

 9年ぶりの光と闇の交錯するステージの中、Kは、2000人の大拍手に包まれ、揺るぎないのない決意と霧を切るような緊張感ともにコツコツコツとコンサートシューズの音ともにステージ歩いて行き、スタインウェイのフルコンサートグランドピアノの前に座ると、椅子の高さを再調整し、満席の客席をゆっくり、ゆっくり、ぐるりと観回した。

 そしてKは、指揮者と目を合わせると、燦然と燃え滾る炎のようになり、ラヴェルのピアノ協奏曲ト長調とラフマニノフピアノ協奏曲第4番ト短調を驚異的なテクニックとリズムで神がかり的に弾き、

(Kは実際、

「あの時、オレは神を見た」。

 と後日、TVインタビューで語った。)

ステージで満席の聴衆から大喝采を浴びた。

 ブラヴォー!

 ブラヴォー!

 ブラヴォー!

 ブラヴォ!!

 ブラヴォ!!

どっと、いう大歓声が飛び交っている。

 Kは、満足した。

 女もKの演奏に驚嘆し、心臓の鼓動が高みに高まって、涙も流したが、

(偶然なのか? ラヴェルの方の2楽章アダージョ・アッサイは、ソロで女のためだけにKが弾いたことがある、その時も女は泣いた。)

どうしても楽屋に会いにいくことが出来なかった。9年という年月がそうさせた、としか言いようがない。

 終演後、FとJは、女とロビーですれ違ったが、まったく女に気づかなかった。女は、気づいていたが女が女自身の気配を完全に消した。

            ☆

 Kの復帰コンサートは、マスコミやメディアにも大きく取り上げられ、TV中継されていたし(6年間も重症の鬱病に苦しんだピアニストの復帰コンサートとして、マスコミやメデイアからは当然注目を浴びていた。マスコミもメディアといったものも問題だ。こんな話題しかとびつかないのだから。果たして彼らは、音楽を心から愛しているのだろうか? という以前に音楽を知っているのだろうか?)、ある高名な批評家Yからも大絶賛されたため、Kの名声は、瞬く間に日本全土へと響きわたることになる。

 その後、Kのドキュメンタリー番組もTVで放映されてこともあって、Kの人気は、日本でNO.1になった。大衆を味方につけたのだ。

 Kもまた、ある意味、完璧主義者だった。

       

            ☆

  

 しかしKはその後、

 周りから、

 持ち上げられ、

 おだてられ、

 ちやほやされ、

(あっという間にKの後援会も出来たほどだ。もちろんあらかじめ、問題のKの父親が働きかけ、こしらえたものだ。Tの猛反対を押し切って。彼らは音楽などまったく知らない。どこそこの理事であるとか代表取締役であるとか、そんな偉いさん方を集めたただの群れだ。豚の群れと変わりない。)

 自業自得により、どんどん自分自身に甘くなってゆく。

 日本にありがちなパターンだ。

 女に溺れ、

(これらの女たちは、Kのアダルトビテオの積まれた部屋でのKとのみだらなセックスだけでなく、こぞってKをV いう広尾の有名な美容院に行かせたり、高級ブランドの服装を着させたり、高級革靴を履かせたり、腕時計は、ロレックス、また高額で派手なネックレスや右耳に穴をあけダイヤモンドの付いたピアスまでさせたりした。)

 パチスロにはまり、

(1日中、コンビニエンスストアHの弁当とお茶を持ち込んで、狂ったようにやっていた。)

 TVにはまり、

(お笑い番組やジャイアンツのプロ野球観戦やサスペンス劇場など。)

挙げたらキリがない、、、

 そうそう、いちばん時間をとられたのは何と言っても、

TVゲームだ。

           ☆

 それに欲というものは、いちばん恐ろしい。

 最後には金のことしか言わなくなる。

 露骨に金だけ。

 と言うことは、Kにとって音楽とは一体何だったのか??? ただの欲を満たす手段であったのか????

 そしてKの名声は、長い長い暗いトンネルのような漆黒の下り坂の一途を辿っていく。

 世の中なんてそんなものだ。

 決して甘くない。

 神を見るほどの才能をもってしてもやっていけないのだ。    

 Kを先生、

(だいたいなんで、Kのような若手ピアニストを先生と呼ぶんだ?)

とするおばさんたちも、いっときは、何十万人もいたのだが、いったい彼女らはどこに行ったのだろう?

           ☆

 

 Kは、今、コンビニエンスストアHのアルバイトとして働いている。

 大学の教授にも、講師にもなれないどころか、ましてや生徒を持つことも許されない。

 女癖が悪い上に、人に教える能力がまったくないのだ。

 Kは、ピアニストの最中でもよくコンビニエンスストアHで検品作業している夢を見たそうだ。

 果たしてそれは運命だったのだろうか?

 それにKは、復帰コンサートで本当に“神を見た”のだろうか?

 Kは、子供みたいに無邪気であったが、大嘘つきでもあったのだから。

            ☆

 

 この話は、実際に起ったことである。

           ☆

 Kの女は、Jになんでも話した。Jは、Fになんでも話した。Kは、Fになんでも話した。またFは、Tになんでも話した。それから逆に女からTに、TからFに、FからJに情報がまわることもあるし、まあKの情報は正確にこの5人で共有していたのである。それがまわりまわって必ずKに情報が漏れるのだが、Kは喜んだほどだ。

 こりゃあ、笑いのネタになるな、と。

 そしてこの5人の誰から情報が漏れたかは、明らかに出来ないが、証拠もある。

             ☆

 ある夜、この5人で化粧パーティをしたことがある。

 KとFとTの顔に、酔っ払った、

(5人ともKの部屋で、女が、真心をこめ腕を振るって料理したKの大好物であるデミグラスソースの煮込みハンバーグを満腹食べて、Kがファンからもらったワインやバーボン、スコッチ、シングルモルトなどの特上のウィスキーやらをじゃんじゃん飲んで機嫌がよかった。)

Jが化粧し始めたのである。

 ものすごくどきついものを。

 Jは、もともとピアノにあまり興味がなく(上手かったのに。)美容師を目指し、化粧品店でアルバイトしていたくらいだから、それはもうプロフェッショナルだった。

 しかも入念に1人30分かけてした。5人で、大爆笑しながら。

なるべく美女、

(でも、どうしてもオカマになってしまうのだが。)

に仕上がるように。

 そして5人は、まさしくアホみたいに腹を抱えて笑い転げ続けた。女なんかKにスカートをめくられ、白いパンティー丸見えでも

「可笑しい!」。

と言って、クックックッ、とひき笑いしていた。

 そして写真を撮りまくった。

 夜どうしだ。

 その化粧のついた顔で、様々なアホ話をした。まあ、シリアスな話もしたが顔が顔だけに、結局、バカ笑いになる。

 あんな楽しい夜があっただろうか? 

 5人の人生の中に。

 その写真が証拠だ。

 あんな楽しい顔をした5人がいたであろうか?

 5人すべての情報を共有していた、ことが一目瞭然で理解出来るだろう。

 その写真を誰が持っているか?

は、不明だが。 

            ☆

 その後、Kと深く関わっていた4人はどうなったか?

 FとJは、結婚して、女の子と男の子を授かった。またFは、コンピューター関連の会社を立ち上げ、そのうちに仕事に忙殺されていく。音楽は、You Tubeのみでたまに楽しむくらいになってしまった。Jは、美容師の夢をあきらめて育児に没頭した。

 Tは、Kのマネージメントを復帰コンサートまでして、Tの勤めていたマネージメント事務所をあっさり辞めた。そしてかねてから一度も行ったことのない石垣島へ行ってみたかったので、この際、思い切って石垣島に移住しようと決意し、実際、石垣島へ行ってしまった。

 女は、音大を卒業すると、奨学金を得てパリに2年間、ベルリンに2年間留学し、研鑽を積んだ後、地元の愛媛県内に小さな音楽学校を設立し、学校長になった。女はまだあいかわず可愛かったし、人望もあったので、地元の有力者が出資してくれたのだ。しかし女は生涯、独身を通すつもりでいた。彼氏さえももたなかった。鏡を見る度に、右の頬の痣を見、ついKを思い出してしまうのだろうか? あの誓いを思い出すのだろうか?

 ぐぐちゃんを丸洗いしなければ、、、

 Kにひとこと、ぐぐちゃんを洗う前に「これ洗ってもいい?」と聞いていれば、、、

 ずいぶん女の人生も変わっていただろう。

            ☆

 

 いや、5人とも結局、彼ら、彼女らのやるべきことをしている、と考えるのが普遍的な意味で正しい。人生でどの様なことが起ころうと、そこで何を選択していくかは、その人の自由なのだから。

            ☆

 そうそうKの父親の話を少ししておこう。

 ひとつだけ。

 Kの父親がKの後援会をつくったことはご存じの通りだ。

 Kの父親は、宮城県のとある町に住んでいたのだが、自分の家の近所に、40坪ほどの土地が売りに出される情報を耳にした。

 ちょうど、復帰コンサートの話しが持ち上がった頃だ。

 そしてKの後援会の中心メンバーになる連中どもに頼み込み、多額の出資を受け、なんとKの記念館を建ててしまったのである。しかも復帰コンサートのひと月以上も前にだ。

 当然、Tの猛反対を押し切って。

(なんでまた若手ピアニストの父親が、そんなにも多額の資金を集め、そんなものに使ってしまうのだろう? 若手ピアニストのためならニューヨークやロンドンなどでのデビュー公演、 CDなどのスポンサーやらいくらでも他に使い道はあるだろう。)

 その記念館の中には、Kの赤ん坊からの写真や楽譜、家族写真、Kとその後援会の中心メンバーの集合写真、グランドピアノ2台(スタインウェイとカワイのフルコンサートグランド。)、Kが病院で生まれ、家に連れてきた時に、玄関に設置して大音量でかけたヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽楽団のベートーヴェンの交響曲第5番「運命」、のLPレコードと古いオーディオセット、Kの学習机から、、、これも挙げたらきりがないが、、、

 その中で、ひとつ印象に残るものといえば、Kの幼い頃、3歳か4歳だろうか? 熊と狸の絵のある子供用のタオルケットのようなものにKがくるまって幸せそうにすやすやと眠っている姿の写真だった。

           ☆

 でも、まあ復帰コンサートの名残があるまでは、おばさんたちが押し寄せたが、評判が悪く、

(当然である。)

今では、一人の客もこない。

こんなものKの父親が死んだらどうなるのだろう?

           ☆

 でも、Kは、父親の血統をしっかりと引き継いでいる。

 Kの記念館の建設が着工された当時からKは、みんなにやたら大自慢していたのだ。

クラシック業界では冷ややかに扱われたというのに。

FやTに言わせれば、その頃からKのすべてが狂ってきたのである。

 

           ☆

 Kは、名声が衰退し、コンサート活動が出来なくなっても、また、何か? マスコミやメディアから注目される話題をこしらえて、再復帰コンサートで神がかり的な演奏をすればいい、と目論んでいた。

 救いようのない阿呆である。

 そしてリストの超絶技巧練習曲 S139を独学で練習していたが、まったく音大の教授に毛の生えた程度と言ってもいいような腕になってしまった。

 肝心の、K自身がまったくそのことが解らなかった。

 想像力の欠如。

 演奏家を放棄していると同じようなものだ。

 そしてKは、マネージメント業界からもレコード会社からも、完全に、見放されてしまった。

Kの言葉なら、

「二度も、神にも見放された」。

だろうか?

           ☆

     

 またこうなるとKは、女からもすっかりもてなくなり、鬱蒼とした憂鬱な日々が続いた。やけくそになって、サラ金業者から借金もし、ストレスをはらす為に、暇さえあればパチンコ屋に行って、また金を擦っていった。

 そのうち気力の萎えたKの心は荒廃し、部屋もとても、もとメジャー・レーベルRのピアニストのものとは思えないほどすさまじく汚染されていく。ゴミ溜めだ。

 誰一人としてKのことを

”孤独で哀れ“

などと同情しなくなった。

           ☆

 

 ひとつ重要なポイントを挙げよう。

           ☆

 Kが、復帰コンサートに向けて、まさに音楽と真撃に向き合い、顔面麻痺になり一時入院までしたとき、まさに不吉な灰色の曇に覆われた病院の屋上で、KとTは、立ち話していたのだが、

 Kは、Tに、

「オレは、これまで頑張りすぎた、、、無理しすぎた、、、だから追い詰められ、、、こんなひどい病気までなった、、、こんなことは二度とごめんだ、、、だからオレは、復帰コンサートが終わったら、生き方をまるっきり変えるんだ。Tよく聞いてくれ、オレは、もっと、もっと、楽に生きるんだ」。

と告白したことだ。

 Tは、呆然となった。

なにいってんだ、こいつ、と。

 そして復帰コンサートが終わったら、Kのマネージメントを、いや、事務所も辞めようと決意した。

 こいつは、ダメになる。

 せっかく、やっと本物になりかけているところなのに。

 ぐぐちゃんだけでもアホらしい話だ、

もう、うんざりだ、と。

           ☆

 Kは、それにクラシックピアノ界での登竜門とされるショパンやチャイコフスキーなどといった国際コンクールの舞台で入賞したことすらもない。いつもセミファイナルや2次予選で敗退した。

 メジャー・レーベルRとの契約はKをワルシャワでスカウトしマネージメントした、Tの才、人脈、それに加えてTの特徴的な大焚火のように熱情迸る売り込みによるところが大きかった。

 無論、Kのワルシャワでの演奏は、Tの価値観を打ち破るくらい劇的であり、かつ大きな夢や大きな予感といったものに十二分に満ち足りていたものであった。Tは、帰国後、自分のアパートの部屋の壁にモノクロのKがピアノを弾いている大きな写真を画鋲でとめていたぐらいだ。

 Tは、コンクールで誰が何位よりも、なによりも自分自身の耳を信じていた。誰になんと言われようとTは、頑なにその価値観でのみ仕事していた。

「正直、鳥肌が立った。日本人のピアニストとは思えなかった。そういう次元でなかった。まさに僕の求めている以上のピアニストに出会った。強い光が彼から放たれ、眩しく眩しくて、しかも好青年ですぐに打ち解けて友人になった。彼と僕は同年齢だった」。

と皆に言った。

 でもまさか、その演奏が、TがKの演奏を数多く聴いた中で一番良い出来だった、とは、、、Tは、ワルシャワでは思いもよらなかった。無論、復帰コンサートよりもずっと素晴らしかった。

 なにしろ、

“純朴で自然だった”

のだ。               

 当時の、肌寒く、枯れ葉舞う、どこか悲しくて、寂しい郷愁のある、ワルシャワの秋そのもののように。

            ☆

 そしてTは、すべてを捨てて石垣島に行ったわけだが、その後、どうなったか?

 石垣島の中でも、田舎の川平で生活するために、オレンジのボストンバッグひとつで行ったのだが、石垣空港から川平にある小さなリゾートホテル、モラモラに直行し、フロントで、いきなり支配人を呼び出した。

 Tらしい。

 しばらくして、支配人と見られる40代半ばの日焼けした半袖のグリーンのポロシャツ、ベージュの短パンにサングラスをした中年の男が事務所から出てくると、

「待たせたね」。

と言ってロビーの気品のあるベージュの革のソファに腰掛けるようTに言った。大きめの綺麗な木目のテーブルには、みずみずしく凛とした白と紫のデンファレーがきれいに一輪挿しにしてあった。

 Tは、なんでこんな東京から遠方の辺鄙な島の田舎に、これほど洗練され、見るからに優秀な人がいるのか? と驚いた。

 オーラまである。

 Tは、丁寧に書いた履歴書を支配人に渡し、これまでのいきさつを詳細に話し、アルバイトで雇っていただけないか、と頼んだ。色あせた水色のTシャツ、くすんだブルージーンズ、使い込んだ白のスニーカーという姿で。また、髪は散髪しておらず、うっすら無精髭も生えている。でも、表情はまるで少年のようで、不思議になんともおだやかで、一重の少年のような目が僅かに輝いている。

 支配人は、Tの“超自然的ななにか”に心を打たれたようだ。

「なにしろ急な話だしさ、1時間ばかり待ってくれないか? ビーチにいてもいいし、レストランにいてもらってもいいしさ」。

と。

            ☆

 Tは、真っ白な砂浜のビーチに行った。海が素敵だと思って来たけれど、

(もちろん海は、Tが思っていたよりも、ずっと、ずっと、遥かに、想像を絶した。)

空がこれまで、すごい! とは思ってなかった。まあるいではないか? これこそ地球ではないか? 強烈な濃さの真っ青なまあるい空を、南国独特の数知れないいろんな形状の真っ白な雲が、自然にふわふわと流れていく。

 地球は星なのだ。

 Tは、ビーチに寝転び、そこで、

完全な自由、

を味わった。

           ☆

 無事、アルバイトとして雇われることになったTは、その日のうちに亀甲墓場の隣の1件の2LDK風呂なし、シャワー付きのプレハブ小屋のような家を紹介され、

(他に選択肢がなかったのである。)、

生活を始めた。

 後に、TがFに送ったメールである。

           ☆

           Fへ

 元気かなあ? ご無沙汰なので、僕の近況です。

 ほんと金がなかったので、なんとか中古のスクーターを入手したんだ。

 住むところは、川平の町から1.5km外れた、巨大な墓場(ここでは墓場のことを亀甲墓場と言う。)の隣の原っぱにある1件しかない家で、家賃は、2万円と安かったけれど、恐怖そのものだったよ。

 保健所でまだ小さな白い雄の雑種犬(アクセルという名にしたんだ。)をもらい、なんとか過ごした。

 また石垣の人に慣れるまで時間もかかった。

 けれども、ここは、完璧すぎてまぶしいほどだ。

 家から海まで30mくらいなんだけれど、ここの海は、おだやかに見えて潮の流れがかなりはやく、死んだ人も数多くいるので、遊泳禁止なんだ。でも、初めてその海に立った時の感触は、まさに強烈だった。潮の流れが、はやい、また、その異常なまでに変幻自在に動く、透明さ、には驚いたけれど、それよりも、自然や生命の感触が、なまなましく僕を襲ったんだ。

“生きていること”を。

 そこで僕は、”これからなんだって出来る”というもの、そんなとんでもない気持ちを、確かに手にしたんだ。

 時給も510円の地元の小さなリゾートホテル、モラモラのレストランのアルバイトで、まったくお金もないのに。

 ここでは、年中、石垣特有の風が、びゅうびゅう吹いていてとても気持ちがいい。これは内地では味わえない感覚だ。それになんといっても空がすごい。まあるいんだ。夜になると、ぼつん、ぼつん、ぼつん、と降ってきそうな巨大な星々や流れ星が見られる。

 Jによろしく。

            T

                 

            ☆

 そしてTは、幼い頃から趣味程度に(それにしては熱心だった。)夜中に絵をずっと描いていたので、川平でも描き続けた。

 それが、ある日、ホテルに訪れた40代の女の画商Oの目に留まり、

(支配人がTの絵に感心し、ホテルにTの描いた絵を数点飾ってくれていたのだ。Tの描く絵は、抽象画だが石垣川平に移り住んでから、オリジナリティーの強い怖いくらいの細密さに加え、開放感が溢れだし、色合いが驚嘆する程明るくなったため、とびっきり美しくなった。)

 いつの間にか少しずつ絵が売れるようになり、十分な仕事どころか、0の夢の存在もなり、しばらくして、Oの夢が現実となって世界的な画家の仲間入りし、ニューヨーク、パリ、ロンドン、ローマ、ベルリン、エルサレム、ブタベスト、アムスデルダム、マドリード、ワルシャワ、アテネ、東京、名古屋、大阪での世界巡回展もおこなわれた。

 しかしTは、結婚もせず、引越しもせず、孤独をつらぬいた。

 家の大家が肺癌で死んだので、相続人から原っぱごと買い取って、そこにアトリエを建てただけだ。

 TVに出ないどころか取材もインタビューも一切合切全部頑なに断る。

 石垣島から一歩も出ず旅行もしない謎の画家として、Tの知らないところ(Tの部屋にはTVもなく、新聞もなければ雑誌もない。)で逆に大きく取り上げられた。 

 Tは、大自然の一部のように静寂な環境で暮らしていた。

 アクセルが、無残にも軽トラックに撥ねられ(放し飼いだった。)死んだ時、

一時、狂って3ヶ月石垣島の精神病棟に入院しぐらいだ。

            ☆

 Fは、最初から知っていた。ピアニストKよりもTの方がよっぽどクリエエイティブになっていくと。

 だが、Tは、決まってひと月に1回3夜連続で、

“孤独の恐怖症”

(それ以外呼び名がないのだ。)

の強度の発作に襲われる。

 島から決して出なかったTが、本島や内地の数々の精神病院にも足を運んだが、まったく原因が解らない。

 Tは、ただ絶望した。言葉もない。

 医師らは、まったく完全にお手あげ状態だからだ。

 そのうち彼らは、まったく耳もかさくなった。

 彼らが口を揃えて言うのは、

”現代医学をもってしても病名も治療方法も解らない病気がまだまだ多い”

と言うことだ。

 Tは、日付が変わる0:00頃から3時間くらい、わけのわからない孤独の恐怖症に苦しみ踠がいて床の上をのたうち回る。

“こんな苦しいのなら死にたい”“死んでしまいたい”“いやいやこんな死に方じゃなく安らかに死にたい“

と発作の最中、そればかりがTの頭の中を、わけのわからない恐ろしい数の羽蟻が四方八方に飛び回り、また這い蹲るかのように押し寄せ、ぐるぐるぐるぐるぐると回る。

 しかも、

“この発作は一生癒えることがない”

のだ。

            ☆

 

 Kと女の訃報が、FからTに知らされたのは、その3年後だった。

 心中したというのだ。

 2人で青酸カリを飲んだのだった。

 警察が、入念に調べたが、遺書はどこにもなかった。

 Kの部屋には、青酸カリの蓋と瓶以外、2つの全裸の遺体だけがあったというだけだ。

 きれいな屍体だった。

 Kと右の頬に痣のある女。

 その2人は、目を瞑ったやさしい幸福そうな笑顔で、お互いを慈しむように抱きあいくるまっていた。ピアスさえもなかった。

 部屋は、クリーンに清掃されていてまったく何もなかった。

 埃ひとつもない。

 台所の壁に穴があるくらいだ。

 ぐぐちゃんもない。

 まったくの空だった。

            ☆

「外は、風で枯葉が、、枯葉が、舞っていて、、まるで僕ら3人がひと月近く過ごした、あの、、、あの懐かしい、ワルシャワの秋のようだった」。

 現場に立ち会ったFは、携帯電話でTに言った。

 Fの声は、涙声だった。

 Fは、突然、しゃがみ込んだ。Tの声をはやく聞きたい一心で、携帯電話を握りしめ右耳にひっつけていた。そして子供を預け、かけつけたJが、はあっ、はあっ、はあっ、と息をし、またその息を凝らそうとしていた。

 長くて重苦しい沈黙の後、ようやくTは、大地が震えるようなかすれ声で言った。

「あれが芸術だった。まさしく音楽だった。あの瞬間、あの時、いや、あの頃の僕らは、Kがすべてだった。それは一生変えようがない、変えようがないんだ」。

 

           (了)