人が「言葉を選ぶ」時間が好きだ

「うーん」

目の前に、さっきからずっと唸っている人がいる。

金欠を理由に入った渋谷の鳥貴族、なぜかハイペースでお酒を飲み、だいぶ酔いが回った。そんな僕の目の前で唸る彼女はいま「言葉を選んでいる」。

***

数分前、彼女は「早川さんの文章が好きです」と言った。

「僕の文章ってどういう文章だと感じます?」と返した。

彼女は「うーん」と考えこみながらも、慎重に、そして少しずつ言葉を紡ぎはじめた。

すぐに言葉が出なかったのは、アルコールの影響もあると思う。それでも、面と向かって確かだと感じたのは、彼女が「言葉を選んでいた」ということ。

少し嬉しくなった僕は、彼女の言葉を急かすのをやめ、じっくり待つことにした。その時間がやけに心地よかった。

彼女がどんな言葉を選んだのかはさておき、僕は「言葉を選ぶ」人が好きなんだなあと思った。もっと言うと、人が「言葉を選んでいる」時間が好きだ。

「言葉を選ぶ」とき、アプローチには2つの方向があると思う。ひとつは「自分のために」。自分が使いたくない表現を避ける目的で、「言葉を選ぶ」。ふたつめは「相手のために」。相手を傷つけないように、または相手に伝わりやすいように、など相手を慮り「言葉を選ぶ」。

ああ、いまこの人は「言葉を選んでいる」、そう思ったとき、嬉しくなる。

使いたくない表現、もしくは使いたい表現を選んでいるのなら、それはその人が妥協することができない部分、美学に関わること。「彼女を恋人と呼ぶ友達」、「被写体をモデルと呼びたくないカメラマン」、僕はそれらをきちんと受け止めたいし、知りたい。

相手のために「言葉を選んでいる」のなら、それは優しい人だ。真摯な人だ。目の前の人間と向き合っている人だ。僕もそうやって言葉を放つ人でありたいなと思う。

選んだ結果、間違った、適切ではない表現を用いてしまう場合もあると思う。それでも、「言葉を選ぶ」というプロセス自体に美しさを感じる。これは僕の美学なのかもしれない。 人間なんだから、常に正しく思い通りの表現ができるなんてことはない。大切なのは、間違ったときに「いまの表現、良くなかったな」と、自分の言葉に意識的でいられるかどうかだ。

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