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駅のホームで一歩下がる感覚

むかしからの癖というか、習慣というか、とにかく何て呼べばいいのかはわからないけれど、どうしてもしてしまう行動がある。

それは、駅のホームに電車が入ってきたとき、一歩下がること

それを始めたのは確か中学生の頃。

野沢尚という作家が好きだった。

野沢尚は、享年44歳で自殺をした。才能を惜しまれながらの、突然の死だったという。

遺作である「ひたひたと」の巻末に、告別式での北方謙三の弔辞が載っていた。以下に一部引用する。

君が作家としてデビューする前から、その作品を読んでいたぼくには、おぼろではあるが、そういう予感があったような気がしている。

暗く、得体の知れない場所に押しやられていく不安。それを、作品の中から読みとってはいた。

ただそれが、死というものと結びつかなかっただけだ。

死は、君にとっては、古い友人のように、ひょっこりと訪ねてきたものだったのではないだろうか。

君はドアを開け、その友人にほほえみかけた。そうすべきではなかった、とも言わない。人には、自らのドアを開ける権利はあるからだ。

これを読んだ直後だっただろうか。友達と遊んでから、自転車で帰る途中、何も考えずに道路を横切ろうとして、車の目の前に出た。

運よく急ブレーキが間に合い、僕は無傷だった。運転手が窓から顔を出し、「バカヤロー! 死にてえのか」と怒鳴る。いま考えても、マンガみたいな出来事だなと思う。僕はと言うと、ただただ硬直して、それは例えるならば、給食の配膳当番がカレーの入ったお鍋をひっくり返してしまったとか、何か取り返しのつかない大失敗を犯してしまったような心境で、口をぱくぱくしていた。友達が見ていたのもあり、ただ逃げるようにその場を走り去る。友達とは軽口を叩きあったけど、家に着いたときにふと「さっき、死んでたかもしれないのか」と思った。

もちろん、それほどスピードが出てる区間ではなかったので、衝突したとしても怪我で済んだかもしれない。それでも、当たりどころが悪かったら死んでしまうわけで。

その頃から、「人間、死ぬときは死ぬんだな」と思うようになった。死を身近に感じることで、死にたくない気持ちは強くなったが、同時に死ぬときは死ぬんだなという諦めがついた。

電車に乗るときはいつも怖い。電車が来たときに、ホームから飛び出せばきっと死ぬ。恐怖というものは恐ろしいもので、恐ろしいからこそ、引き寄せられてしまう。電車が来るたびに、飛び降りることを考える。それは死が手招きをしているような、奇妙な呼び掛け。普段なら、「いや死にたくないし、バカらしい」と思うことができる。でもたまに、その呼び掛けにバカらしいと答えられないときがある。それは疲れてるときかもしれないし、なにか嫌なことがあった日かもしれない、弱ってるのかもしれないし、特に理由もなくかもしれない。とにかく、人間の精神状態なんてその日による。今日の決断と明日の決断が変わることなんてあり得るのだ。

そうでなくても、後ろから突き飛ばされたり、酔っていて体のバランスを崩したりすることだってある。現に僕は、酔っぱらってホームに落ちそうになったこともあるし、ホームで並んでる人に体当たりしてしまったこともある。ほんとうにごめんなさい。自分に非がなくても、いろんな歯車が悪い意味で噛み合って事故に巻き込まれる人もいる。理不尽だけど、そういうものなんだと思う。

僕は別に死にたいわけではない。駅のホームで一歩下がるのは、「死にたくない」という僕の意思表示である。いつか僕がホームに飛び込んだとしても、そういうことだよとか怖いことを言いたいわけではない。ただ、ホームから一歩下がらずに前に出てしまう自分もあり得るのだと考えてしまう。

まえに、死生観の話で後輩と盛り上がったことがある。死生観で盛り上がるなんて変な話ではあるけれど、彼女は「駅のホームで一歩下がる感覚」に共感してくれた。彼女は頭が良く、感性が鋭く、頭のなかを覗いてみたいなと思うくらい面白かった。そんな子にとっても、死は身近なんだなと思った。これはただほんとに思っただけ。

その子以外でも、稀に、同じ感覚を持つ人と出会う。だからこそ、考えてしまう。呼び掛けに応じてしまった人のことを。誰かの身に起きたことは、僕の身にも起きるかもしれないことなのだと。

それはまさに、坂元裕二が「不帰の初恋、海老名SA」で書いていたように。

団地は全部で八棟あって、真ん中に川が流れていました。草むらに覆われた狭い川だけど夜になるとよく行って、暗くてなんにも見えない中、足下をちょっと浸してプラプラさせながら水音を聞くのが好きでした。ある時そこで事故が起こりました。六号棟に住んでるわたしと同じ年の女の子が溺れて死にました。それ以来子供たちが川に近付くのは禁止になりましたが、わたしは相変わらず夜になると行って、柵を越えて、足をプラプラさせました。わたし、思ったんですね。その子じゃなくて、わたしが溺れるパターンもあっただろうなって。あの長い棒で捜されたり、アナウンサーの人に名前を呼ばれたりが、わたしだったパターンもあっただろうなって。でね、思ったんです。いつでもどこでもわりと簡単に死ぬよな~って。

(不帰の初恋、海老名SA 9Pから引用)

わたし、こんな風に思うんです。君の問題は君ひとりの問題じゃありません。お婆ちゃんの団地の川で女の子が溺れ死んだ話したでしょ。誰かの身の上に起こったことは誰の身の上にも起こるんですよ。川はどれもみんな繋がっていて、流れて、流れ込んでいくんです。君の身の上に起こったことはわたしの身の上にも起こったことです。君は学校で、わたしはまた別の場所で。

(不帰の初恋、海老名SA 16Pから引用)

初めて読んだとき、僕の抱えていたこの感覚の一部がやっと言語化された気がして、スッキリしたことを覚えている。

死は、そうやってずっと身近にいて、ふとしたときに顔を出す。逆を言えば、死こそが人間にずっと寄り添っていてくれる存在なのかもしれない。乱暴な言い方かもしれないけど、死の存在を自覚したからこそ、「死にたくない」と明確に言えるようになった。死にたくない。とはいえ、人間の考えは首尾一貫しているわけではない、言行一致ができるのはフィクションの世界の人間なのだろう。

***

今日も電車に乗る。

今日はどうだろうか。

今日は……先のことは分からない。

後輩の女の子の言葉を思い出した。

「いつでも死ねると思うことで楽になれた。でも、生きてると大切な人が増えていって、大切な人が増えるほど、簡単には死ねなくなる。それって、生きにくくないですか?」

確かになあ。確かになあと思ったけど、とにかく僕は死ねないなあと思った。生きにくいかはともかく。

どうやら、僕は大好きな人たちとお酒を飲むのが好きみたいで。

今日も、これから。

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