周りの期待や好意で潰れるくらいなら、そんなもの捨ててしまえばいいのではないか
スマホをじっと眺める。
飲み会が終わり、ほろ酔いくらいのテンションだ。最寄り駅までの終電の時間を見たところ、まだ30分ほどは余裕がある。
しばし迷ったが、ここは歩いて帰ることにした。渋谷から自宅までは徒歩で1時間程度。酔い醒ましには十分すぎるくらい。
イヤホンを耳に挿していたが、何も聴いていなかった。何も考えずにただ移動という目的だけで歩きたい気分だった。
***
気がつくと自宅のソファーにいた。時計を見ると、きちんと1時間ちょっとが経過している。酔ってたのかなと思いつつ、TVのリモコンを手に取り録画したドラマを流し見する。
画面に集中してはいなかったが、BGMのように耳をすり抜けていく音のなかで、やけに耳に残るセリフが聴こえた。
リモコンを手に取り巻き戻す。もう一度聴いた。
『自分のダメさ加減言うのって簡単だし頭良さそうだもんな…
ただ本気で自分がバカで力がないって認められないのは 心のどっかで自分のことかっこいいと思ってるからだろうな
わからねえ でもずっとこのままバカなままじゃ俺もう耐えらんねえよ』
何気なくぼーっと見てたドラマ「宮本から君へ」のセリフだった。
「なるほど確かにな」と思った。
自分のダメさ加減を自分で言ってる間は、なにか客観的に物事が見えているような、俯瞰視できているような気になる。
自分はダメダメだけど、それが分かってるだけまだ利口だみたいな。
そういうのって癖になるよなあと、一時停止した画面を見ながら呟く。「自分のこと利口だな」と思ってるんだろうなとまた俯瞰的に自分を見る自分がいる。こうなるとメタ認知の話になってきりがない。
自分のことを卑下してばかりいる状態は、なるべくならやめた方がいい。きっと、自分のことを評価してくれる人が出てきたときに、素直に受け止めることができなくなる。
自分が「だめだだめだ」と言っていても、周りの人はやさしく「そんなことないよ」と言ってくれる。そうなると今度は、その人たちに申し訳ないから自分のことを卑下することができなくなっていく。自分のことを認めてくれた人たちに失礼だからと。
自分のことを認めてくれる、好きでいてくれる人たちの意を汲もうとする意思、それはそれで尊いものではある。でも一方で、自分の中の自信のゲージが空っぽなのに、他人の言葉だけを依り代に、ありもしない自信を掲げるのなら、それは健全ではないように思う。それで潰れるくらいならそんなもん捨てちまえとも思う。
言葉には人を殺す力があるし、同時に生かす力もある。でもそれは、ポジティブかネガティブかはあまり関係がない。ネガティブな言葉が人を生かすこともあれば、ポジティブな言葉が人を潰すこともある。
善意の言葉には、発信する方も受信する方もあまり抵抗がないため、拒絶がむずかしい。
だからこそ際限なく、自分の身の丈に合わない善意を受け取ってしまい潰れる人がいるのだろうと思う。
言葉というものは一人歩きをするもので、実体のない虚像のようなものがどんどんと膨らんでいく。他者からの期待や好意に、空っぽの自尊心が押し潰され、裂けた穴からは空気が漏れつづける。
期待や好意を、自信の種として、育てていけるのならそれでいい。でも、そうでないのなら、惨めったらしくも自分を卑下し続け、底に至るまで落ちてもいいのかもしれない。底に落ちたからこそ、見える景色はある。そこで、小さくても確かなものを少しずつでも見つけることができるなら、それは必ずしも否定される道ではないかもしれない。周りから見ると鬱陶しい人間に見えるだろうけど。
きっと失うものもある。でも手に入るものもある。何を選ぶかは自分次第だけど、潰れるくらいなら捨ててしまう、そういう選択肢があってもいい。
何事も自信が持てた方がいいけど、無理に自信を持つ必要もない。自信がないのなら、自信がないと素直に言えばいい。無理なんかしなくていいよ。
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