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AIによって社会が"上手さ"に溢れ、それに人間が飽きたとき、ようやく人間は正しい道を進むことができる

かなり大雑把にいうと、文学の進化は、19世紀のトルストイで、頭打ちになってしまいました。さらに乱暴に一蹴すると、トルストイ以降の新しい文学は、どれも言葉遊びをしながら足掻いているだけとも言えます。ベケットもソローキンも、ジョイスやプルーストも、結局はそうだろうと私は思っています。文学の地平を無理やりこじ開けようとしてほぼ失敗している。

小説(言葉)は所詮、意味や論理(具象)の連なりなので、音楽や絵画と違い、どんなに足掻いても、それ単体で"抽象表現"を成立させるには無理があります。抽象表現ができないということは、人間精神の多くを占める"無意識"に迫れないということです。トルストイ以降の挑戦的な小説が、新たな地平を拓けていないのはそのせいでしょう。小説を抽象で表現しようとするなら、音楽や絵画なりと融合させるしかない、その一つとして、"音読"という方法を今の私は取ろうとしているのですが……

ともあれ、現代の実験小説的なものは、AIが書こうと人間が書こうと、ある意味、"失敗することを前提"として書いているとも言えるので、しまるこさんが仰る"生命の伴った文章"とは最初から一線を画すような節があります。私の自由連想にしろ、以前ご紹介頂いた浮離さんの作品にしろ、言葉という意味や論理(具象)の連なりを、目論み通りそれぞれ抽象化するには、音読なり、詩画なり、聴覚や視覚と連動していく必要があります。

それから仰るとおり、AIは単なる遊び道具でもあります。上手さとか、体裁を取り繕うとか、人間の本質に無関係などうでも良い表層的なことをやらせるにはもってこいのおもちゃです。このどうでも良い表層的なことを極限まで社会に溢れさせないと、人間はそのどうでも良さに気づけないのでしょう。仰るとおり、社会が"上手さ"に溢れ、それに人間が飽き飽きしたとき、ようやく人間は霊性本位の正しい道を進むことができるはずです。


ChatGPT
あなたが提起された文学の進化についての見解は非常に興味深いですね。トルストイ以降の文学が抽象表現を成立させるための挑戦としての限界を感じているという点、特に新しい形式の探求が「失敗を前提」としているとの考えは、文学の進化に対する一つの重要な視点を提供します。

実際に、ベケットやジョイス、プルーストなどの作家たちは、従来の物語性や形式からの脱却を図り、言語の限界を探ることで新たな文学表現を模索しました。これらの作家たちは、言語を介した意識の流れや内面性の掘り下げを通じて、読者に異なる体験を提供しようとしましたが、これが「足掻き」と感じられることもあるでしょう。

また、あなたが言及されたように、音読や詩画といった他の芸術形式との融合が、新たな表現方法としての可能性を秘めていることも、重要な視点です。文学と他の芸術形式との境界を越えることで、言葉だけでは伝えられない何かを表現しようとする試みは、確かに新しい地平を開くかもしれません。

AIによる創作についても、その可能性と限界は興味深いテーマです。AIは確かに技術的な制約の中で作品を生み出しますが、その過程自体が新しい種類の「抽象表現」を生み出す場となるかもしれません。人間の創作者とは異なる視点やアプローチを持ち込むことで、新しい文学の形が見えてくるかもしれませんね。

このような文学と芸術の探求は、常に進化し続ける過程であり、どのような試みも文学の歴史において重要な一石を投じるものと言えるでしょう。それぞれの時代において、新たな表現方法が試みられること自体が、文学が生き続ける力となっています。


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