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無個性症候群

 夜中に目がさめて、もう十年以上も前に中目黒の建設現場ちかくの路上でひろった、薄い鉄製の茶色い入れものを横向きにしておけば、その中に文庫本を縦に並べられるかもしれないと思って、すっかり目が冴えた。問題はその箱を横向きにしたとき、下にするつもりの側面の部分が水平かどうかである。基本的には水平なはずだが、なにか突起物のようなものがついていた気がして、もしもそれでグラグラするとかしたら、そもそも横向きにおけないから意味がない。はたしてそれは水平なのか、すぐにでも確かめたいと思ったが、その入れものは妻が寝ているほうの押入れの中の、しかもたいぶ奥のほうに、捨てるつもりの雑誌や壊れた扇風機なんかと折りかさなるように入っているはずだから、要はそれらのものも一緒に引っぱり出さないといけない。当然、電気もつけないと見えない。時刻は午前二時。ぼくはあきらめて布団にもぐった。が、なかなか寝付けなかった。
 中目黒には自転車でいった。そのときぼくは下北沢に住んでいた。正確には、東北沢と笹塚のあいだの北沢五丁目に住んでいた。自宅アパートのすぐ近くに、屋根の片面が地面にまで垂れ下がっている少し風変わりな一軒家があって、しかしそれはお洒落でそうなっているというわけでもなさそうで、実際それ以外はとくに変わりばえのない普通の家にみえた。その家の斜め前を横切ってから、笹塚駅にいく途中にみじかい遊歩道があって、そこにはだいたいいつも、さわやかなイケメン風の浮浪者がいた。男は、百八十二センチのぼくより背が高そうで、歳は四十前後にみえた。優しそうなパッチリとした目をしていて、笑っていなくても笑っていそうな明るい表情をしていた。だからというか、「ひまわりの人」と、心のなかでぼくは勝手にそう呼んでいた。ひまわりの人は、だいたいいつも本を読んでいた。なんの本かはわからなかったが、古本屋の奥のほうによくある、ヤケて茶色くなった、しかも分厚いやつだったから、たぶん難しい本なのだろうとは思った。一度、大雨のときにその遊歩道をとおりかかったら、ひまわりの人はさすがにしんどそうな顔をしていて、それでも、ひまわり感が少しなくなった程度というか、ひまわりの人はやっぱりひまわりの人なんだな、と思った。
 何年か前のテレビで、ある有名な芸能人の二世タレントの男が、笹塚駅前の路上でインタビューを受けていて、ちょうどその後ろに映っていたベンチにすわって銀行が開くのを待っていた、さらに何年か前のいつかのことを思いだした。その日、銀行の窓口で対応してくれた女の子は、一目で可愛いとわかるタイプではなく、何日も眺めているうちにその可愛さがわかるタイプのような気がした。そんな気がしたついでに、知る由もないその子の普段の生活をイメージしようとして頭にパッと浮かんできたのが、ラッシュのバスボムだったのは、その子のイメージがそうだったとか、その子への軽い下心がそうさせたとかでもなく、その少しまえに、その子と同じ年ごろのバイト先の女の子が、ラッシュのバスボムの話しをしていたのをふと思いだしたからで、つまりその子の普段の生活を、ぼくは何一つイメージできなかった。ラッシュのバスボムは、まるくてボールの形をしているから、ぼくはそれを「バスボム」じゃなくて、「バスボール」だとずっと思っていた。妻もそうだったらしく、一年くらい前に二人でラッシュにいったときに、「あのまるいの、ボムっていうんだね」といった。ラッシュにはそれ以前にも妻と何度かいったことはあったが、その「ボムの話し」は、仙台駅前のロフトの中にはいっているラッシュにいったときに、はじめてでた。仙台のラッシュには、バイト先の事務の女の子にバレンタインのチョコレートをもらって、といってももちろん義理チョコだったが、一応そのお返しを探すつもりでいった。昨日ふとその女の子のことを思いだして、その子のフルネームをネットで検索したら、フェイスブックの画像が何枚かでてきて、そのうちの一枚に、後ろ向きのその子の写真があって、なんで後向きなのかと思ってよく見ると、後ろ向きで後ろに回したその両手で、ハート型をつくっていた。それはでも、見た目のインパクトどおり難しいことなのか?と思って、同じようにちょっとやってみようとしたが、うまくできなかった。が、ちゃんと立ち上がって本気でやれば、できそうな気もした。写真の背景、といっても、その子は後ろ向きだから、そういう場合も背景といっていいのかわからないが、とにかくその子の向こうにはやたら綺麗な湖が広がっていて、だからというほど日本にやたら綺麗な湖が少ないのかはわからないが、たぶんそこは日本ではないだろうと思った。
 仙台駅の西口と大宮駅の西口は、駅前のつくりが似ている。そうではない大宮駅の東口から二十分くらい歩いた浅間町というところに、妻は住んでいた。十年前、妻と付き合いはじめて、浅間町の妻のマンションにはじめていったその三週間前に、部屋がけっこう散らかっているから、来るのをあと一週間まってほしいと妻にいわれた。要はそれがさらに二回続いて、三週間目に大宮駅へ行くための埼京線にのっていたら、「やっぱり一時半にしてほしい」と妻からメールがきた。しかし、大宮駅について、二時まで時間をつぶしても妻はこなかった。もうすぐ二時半という頃になって、一応ずっと走ってきたような息の切らせ方をしてきた妻と、駅前で買いものをして、ようやく妻のマンションについたと思ったら、「ちょっとまってて」と、さらに玄関先で五分くらいまった。が、まだ終わりじゃなかった。部屋にはいってトイレにいこうとしたら、「あーダメ!ちょっとまって!いいからちょっとそっちいってて!」と、妻は慌ててトイレ掃除をはじめた。さらにトイレにはいるまえに、「シャワーカーテンは絶対あけないでね!絶対だよ!あけたら別れるから!」と、なんども念を押されて、だからというわけでもなかったが、いわれたとおりシャワーカーテンは開けないでおいた。
 妻の部屋には、ほとんど放し飼いにされたウサギが一匹いた。そして妻はぜんぶそのウサギのせいにした。ウサギはキッチンの下にそのままゴロンとおかれた人参をたべていた。人参を手で押さえるとかそういうことはできないらしく、一口噛むか噛まないかのうちに、人参は滑ってむこうへ逃げていった。そうはいっても追いかけているうちに、必ずどこかの壁にぶつかる。だから人参は部屋のどこに転がっているのか、あるいは食べてしまったのか、いつもわからなくなった。人参はだいたいいつもスーパーで買っていたが、うっかり切らしてしまったときは、近くのファミリーマートで買った。ファミリーマートは近くに二軒あって、どっちにいくにも距離はそう違わなかったから、そのときの気分でどっちかのファミリーマートにいった。ファミリーマートの人参は、スーパーや八百屋のとちがって綺麗で、ちょっと放置したくらいで黒くなることもなかった。でもウサギはスーパーや八百屋の人参のほうをがっついて食べた。匂いがぜんぜん違うと妻はいったが、ぼくにはその違いがあまりわからなかった。

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