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パロディが作る過去

「テレビブロス」2017年10月掲載のコラムの再録です



 藤井隆のアルバム「light showers」のプロモーション動画が面白かった。「90年代のテレビCMとタイアップした」という体で楽曲を使い、架空のいかにも90年代っぽいCM映像をわざわざ作っているのだ。「夏、売り場、走る。」なんてキャッチコピー、いかにもで最高である。

 しかしそれを観て、少し恐ろしくなった。これはパロディのこわさだ。よく、パロディには愛(or敬意)がなければならないという言葉を見かけるが、そのようなものの有無とは無関係に、パロディには対象のものを定式化してしまう呪いのような効能がある。

 コロッケによる森進一のモノマネも、実はとても残酷なのではないかと思っている。ある枠組みからパターンを見つけ出して、その規則性を強調して見せるのがパロディだ。つまり、パロディ化されればどんな個性的なパフォーマンスも「いつものアレ」になるリスクがあるということで、これは結構、やられる側にしてみれば尊厳に関わる問題ではないか。

 藤井隆のPVは、その時代特有の空気感・ノリのようなものを見事にパロディ化している。その結果、90年代の「あの感じ」が、映像によって言語化されてしまった。枠組み内のパターンを見つけ出したというよりは、むしろ枠組みそのものを発見したようなインパクトがある。

 私たちは「江戸っぽい感じ」「大正ロマンっぽい感じ」「昭和な感じ」を共通認識として持っている。それはパロディという定式化の力によるところも大きい。そして、これまではかろうじて「現代」の範疇に収まっていたものが、ついに藤井隆が演じたパロディによって、明確に過去として切り離されたのを感じたのだ。

 今生きている現代も、未来から見れば特有のノリを見出され、パロディ化されるのだろう。それを思うと楽しく、怖い。

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