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「あじさいの正しい距離」2019年7月1日の日記

・・記事に出ています。私はなんなんだ? この記事そろそろ10万ツイートとか行きそうなんだけど、そんなに見ないでよ。

・ひさびさに生配信をやった。アイマスのシャイニーカラーズというやつを喋りながらやった。いろいろな気持ちが発散できてよかった。

・白瀬咲耶さんという人、常に気配りが完璧で「みんなのために」が口癖の、利他精神の塊のような人なのに、どうしてこんなに不安になるんだろう……と思っていたが、誰かがコメントで「自尊心が全く感じられない」と表現していて、なるほどと思った。人間ドラマとしての「シャニマス」は、「他者/自己」の「承認/拒絶」が複雑に重なり合っていて、白瀬さんの造形はかなりそれが入り組んでいると思う。


・ヒトが「思ったこと」や「感じたこと」のうち、いったい何%が実際に表現されているのか。きっと0.01%もないだろう。ヒトの思考のほとんどは、言う意味のないようなものばかりのはずだ。脈絡がなかったり、自分勝手であったり、理不尽だったりするのが普通の思考で、わざわざ発話されるものはそのごくごく一部、言うことによって何かよい効果をもたらす言葉ばかりである。

・思ったものの「言っても仕方がないだろう」と思われて(あるいは思われることもなく)淀みに消えていく言葉が無数にある。街を歩いていて、人々が言葉を交わしているのを見るとき、その深層に10000の言われなかった言葉の気配があり、にもかかわらず、実際に発される言葉が「こんにちは」とか「そうなんですか」といった当たり障りのない言葉に留めているとき、私は人々が自然に持ち合わせている限りない上品さを感じて敬服する。

・誰もが意識もせずに行う「言う/言わない」という取捨選択の結果が、この目に見え共有される世界だ。それが全てなのだが、それが全てになるまでに「過程」がある、ということが重要で、そう思えれば銀座線のアナウンスが読み上げる定型文に感動することだってできるはずだ。漫画などで、長い戦いが終わったあと、日常に戻ってくるシーンがよく描かれる。日常は本当に何気ないものなのだが、読者は日常の背後に戦いがあり、戦いが無ければ日常が訪れなかったことを知っているから、グッとくる。発話のレベルにおいて当たり障りのない言葉の裏では常に「戦い」が行われている、ということ。

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