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【短編】カスタ博士

「たったいま、指導者はお亡くなりになりました」

 横たわる亡骸を見下ろしながら、ベッドを囲む数人の男たちが悲嘆の息を漏らした。

「ああ、そんな……」

「まだ信じられない。我々の偉大なる指導者が永遠に失われたなんて」

「こんなに、今にも目を覚ましそうなのに」

「終末期は病に冒されひどく苦しんでおられましたが、最後はなるべく安らかな顔で逝きたいとのことでしたので」

 独裁者の最期を看取ったカスタ博士は、使い終えた注射器のシリンダーを片付けながら訥々と答える。

「おそらくは、この国も我が指導者の死と運命をともにするでしょう」

 病室に満ちる重い空気は、悲しみであり諦めであり、巨大な虚しさそのものであった。ますます勢いを増す隣国の侵攻に、偉大なカリスマを病で失ったこの国は耐えられない。誰もがそう思い、事実すぐにその通りになった。


 数十年間続いた戦争は、指導者の死を契機にあっけないほどすぐ終止符がうたれた。国家は解体、隣国に占領された。そして、敗戦国を相手取った軍事裁判が行われる。

 戦争犯罪人として、何十名もの政府関係者が槍玉に挙げられた。しかし、最も大きな扱いを受けたのは将校や大臣ではなく、軍医のカスタ博士であった。

 彼は、大量虐殺に直接的に関わっている。

 亡きカリスマは民衆のコントロールの方法を心得ていた。それは苦しみと死への恐怖である。彼は反乱分子や隣国のスパイ、劣等国民とされる者たちを定期的に連行しては、議事堂前の広場で処刑した。見せしめのため、なるべく彼らが苦しみ抜いて死ぬことを指導者は望んだが、国際条約では拷問が禁じられている。そこで、薬殺刑に目をつけた。

「それを見れば誰もが震え上がり、正しく生きたいと心から願うような、そんな恐るべき死に際。お前ならきっと作れるはずだ」

 カスタ博士は断らなかった。彼はこの国家に忠誠を誓っていたのだ。


 あまりにおぞましい光景だった。薬品を投与された死刑囚たちは柵で囲まれた広場に放される。5分もしないうちに、死刑囚は目を血走らせ、手足をでたらめによじらせながら、この世のものとは思えない叫び声を上げてのたうち回る。多いときには数千もの人間が広場を転げ回った。地獄の叫びは平均して3時間絶え間なく続き、5時間が経つ頃には誰も動かなくなる。その様子を死刑を免れた国民は現地や中継で見守り、正しい国民としての生き方を改めて肝に命じた。犠牲者は合計で80万人に及んだという。

 のちに「死のダンス」と海外ジャーナリストが報じた処刑はこの独裁国家の代名詞となり、薬品を開発したカスタ博士は白衣を纏う悪魔などと呼ばれた。指導者が死んだ今、大量虐殺に直接関与したカスタ博士に憎悪の眼差しが向けられるのは自然の成り行きだった。


 政府関係者43人の処刑が決定した。特にカスタ博士を含む上層部5名については「計り知れない犠牲を生み出した責任が極めて重大」であるとされ、より重い処罰が求められた。

「白衣の悪魔に死を」「奴にも死のダンスを踊らせるべきだ」

 プラカードを掲げる集団の憤りはとどまるところを知らず、うねるような怒号が裁判所を包み込んだ。そして、カスタ博士は自らが作った薬品によって処刑されることが決まった。

 拘束されたカスタ博士が議事堂前の広場に連れてこられた。最期に何か言い残すことはあるかと問われ、彼は「私はこの国のため、命令に従ったまでだ」と答えた。その返答に、彼を取り囲む群衆はさらなる怒りの声を上げた。

「悪魔を殺せ」「殺せ」「ダンスを」「終止符を」

 熱狂に包まれる中で博士の首を注射針が刺し、透明な液体が注入される。

 ほどなくしてカスタ博士の絶叫が広場に鳴り響いた。

 まるで陸にあげられた蛸のように全身をくねらせ、泥まみれになりながら這いずる。かと思えばバネのように地面から飛び上がり、頭から地面に落ちる。両手で首のあたりを掻きむしりながらのたうち回る。鼻を折って血が派手に吹き出た。変わり果てたカスタ博士の姿を見て群衆は拳を突き上げた。

 ついに神罰がくだった。悪魔は自らの毒で3時間苦しんで死ぬ。今日は変革の日だ。



「私は間違っていなかった」

 目まぐるしく動く視界を眺めながら、カスタ博士の意識は考えていた。

「想定していた通りの結果だ。自らの体で試して、初めて実感できた」

 もはや彼の耳に群衆の怒号は聴こえない。絶え間なく発される自らの叫び声すらも聴こえず、痛みも何もない。濃度の高い塩水に身を任せているかのような浮遊感に包まれている。

 指導者の命令でカスタ博士は致死性の毒薬を開発した。この毒薬は、約3時間という致死猶予のほかにも特徴を有している。まず、投与されてしばらくすると全身が麻痺し意思で動かせなくなる麻酔作用。そして、目の充血や手足の不随意運動、さらにトゥレット症候群に似た不随意発声の表出。

 ゆっくり、ゆっくりと、意識が遠くなってくる。終わりまでには3時間ある。カスタ博士は薄暮れの中に浮かびながら考えた。

「亡き我が指導者よ。私は命令を成し遂げました。きっとこのような姿を見れば人々は筆舌に尽くしがたい痛みを思い描き、その恐ろしさを戒めとすることでしょう」

「しかし、私は思うのです」

「指導者の亡き後すぐに我が国は解体されました。永遠の忠誠を誓っていた国民はすぐに隣国に翻ったようです。結局のところ、我々が従えることができたのは国民の外面だけだったのではないでしょうか。すべてを貫き支配する力など幻想に過ぎないのではないでしょうか。実を言うと、この考えはずっと以前から私の心にあったものです。しかし、きっと貴方は知らなかったでしょう」

「いま、私は安らかです。今まさに体はのたうち回っていますが、その実、何の感覚もありません。しかし罪の痛みは感じます。80万の命を私の研究が奪った。その罪はいかなる薬品を投与しても消えることはありません。せめて犠牲者が苦しまないようにという密かな工夫は、この罪の大きさに比べたら些細なものに過ぎません」

「さて、亡き我が指導者よ。あなたは自らが病に侵されたときも私を信用してくださいましたね。そしてこう仰りました。『せめて最後は安らかな顔で逝きたい』と。私はその命令も確かに成し遂げました」

「指導者よ。あなたもまた罪人です。あなたが眠るように逝くまでの間、実際にはどのような感覚を味わっていたのか。私にはそれを直接知ることができません。それは、貴方だけのものです。貴方が無視してきたものそのものです。最後にそれを感じていただけたでしょうか」






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