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思想は偏っていてもまっとうでいられる


楽しくインターネットを見ていると

「私は右でも左でもなく、自分の頭で考えて中道をゆく普通の人間です」

的なことをTwitterとかの自己紹介欄に書いている人が、ちょくちょく目に入ってくる。

で、実際にその人の発言を追ってみると、ほとんどの確率で思想的にはどちらかに偏っているように見えて、えーっ となる。中道ってなんだったの、と。

これがしばらく不思議だったんだけど、もしかしたらそういう人たちは「思想」を空間的に表現することと、「人としての正しさ」を空間的に表現することを混同しているのかもしれない。

それってどういうことかという話を今からします。

まず、「右翼」とか「左翼」みたいな言葉はただのラベルであって、それ自体に深い意味はない。Wikipediaを見てみたら

フランス革命期の「(憲法制定)国民議会」(1789年7月9日 - 1791年9月30日)における9月11日の会議において、(中略)議長席から見て議場右側に「国王拒否権あり・二院制(貴族院あり)」を主張する保守・穏健派が、左側に「国王拒否権なし・一院制(貴族院なし)」を主張する共和・革新派が陣取った
左翼・右翼 - Wikipedia

とある。議会において座席の位置が右と左で違う陣営だったから、という理由だ。なので、別に「A派」「B派」と呼んだって本来はかまわないわけだ。

ところが、「右」「左」というふうにわけると、そこに空間が生まれる。すると、じゃあ「真ん中」はどうなの、という気分になってくる。この「真ん中」にどういう意味を与えるかで解釈が変わり、混乱が生まれうる。

まず、1つめの素直な解釈。

いわゆる「中道政治」という言葉の意味がそれだ。右派・左派どちらにも属さず、両サイドからいいとこどりをしたような思想に基づく政治をいう。中道右派とか中道左派みたいな言葉もこの解釈に沿った言葉だ。これをなりたたせる空間を「右-左翼空間」と呼ぼう。

このような「中道」の概念自体は、右-左翼空間なしでもなりたっただろう。たまたま左右で分けたから、それにならい「中」という表現をしているだけであって、もし「A派・B派」という呼称だったら「AB政治」と呼んだり、中道左派は「ABのB寄り」とか、まあそういう言い方で表せるからだ。

そしてもう1つの「中道」の解釈。

それは「まっとうである」ということだ。この解釈は、思想を空間的にたとえたことで生まれた混同だと思う。

「偏り」という言葉は「悪さ」を想起させる。船の積み荷を置く場所が偏っていたら沈んでしまうかもしれないし、栄養バランスが偏るのは健康に悪い。「それがなんであれ、偏るのはよくないことだ。まんなかが一番いいよね」というイメージは、とても広く定着している。空間の中心を「善」としたうえで、そこから離れるほど「悪」になっていく感じだろうか。これを「善悪空間」と名付けよう。

しかし、これを不用意に「思想」へ当てはめると変なことになる。なぜなら、どんな内容であれ思想を主張することは「この思想は"まっとう"だ」と言うことだからだ。思想の対立は、言い換えると「自分の考え方こそ善悪空間の"まんなか"に位置している」と互いに言い合う対立なのだ。

右翼でも左翼でも内部の人は「これこそ善悪空間のまんなか」と思っている。このとき「右-左翼空間」と「善悪空間」という2つの空間が出てきていることに気をつけなければならない。一部の人は、この無関係な2つを混同してしまう。そして「偏るのは(善悪空間において)善くない」から「右でも左でもなく(右-左翼空間において)まんなかです」と言いたくなる。

これは無差別殺人って悪だなあと思っている人が「でも無差別殺人に賛成するのも反対するのも偏っていてよくない。私はどっちでもないまんなか派です」と言うのと同じくらいおかしなことだ。賛成反対を両端に置く座標の中で「無差別殺人反対派」は偏っているが、それはべつに偏っていてもいい偏りなのである。

なので、思想をマッピングしたときに自分の考えがはじっこに位置していたとしても、それだけで思想のまっとうさが毀損されることはない。そこで焦って善悪空間のルールを持ってくると、内容のない「中道」を主張することになってしまう。この混同は単なるスタンスの表明の中に善悪判断を紛れ込ませることになり「私は正しいから正しいんだ」というような無茶苦茶の横行にもつながる。

誰だって自分が正しいと思っている。それは当たり前なんだから、「私はまっとうです」とわざわざ言うことに大した意味はない。むしろ、客観的にどう自分が「偏っているか」を進んで明らかにしたうえで話をしたほうが本当は全然いいんじゃないかなーと思っている。

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