自責と他責

今日は今ニュースを騒がせている年金問題から生じた議論について、色々と思う所があったので、つらつらと感じたままに書いていこうと思う。

「自責派 対 他責派」

年金問題についてはデモも行われたようで、今SNS上ではそれらに関する熱い議論が繰り広げられている。それは主に「(こうなることを想定し)用意してこなかった人間が悪いという派閥」と「政府の態度やこれまでの取り組みが悪いという派閥」による議論だ。

SNSのように限られた文字数で議論が行われてしまうと、まるでゼロかヒャクかのように論じられてしまう。今では「自責派 対 他責派」の議論のようになっており、これはとても危険なやりとりだと考えた。

問題が「個人に帰結するか否か」を考える

「自責であるべきか、他責であるべきか」という話をする場合、まず考えるべきことは「その問題が個人に帰結するか否か」だと思う。世の中にある問題には「その人の努力でどうにかできる問題」と「できない問題」の2つがある。(後者の問題を抱えた個人のことを「社会的弱者」と呼ぶのだと思う)

この前提を考えることなく(それらを一緒くたにして)「自責 対 他責」の議論をしてしまうと、いつまでたっても話はまとまらず、お互いに歩み寄ることが難しくなっていく。結果、課題解決は遅れ、支援すべき社会的弱者と呼ばれる人への支援が遅れる。つまりそのしわ寄せはいつだって弱者に向かう。

僕は「個人に帰結しない問題」を解決したい

僕は上述した「個人に帰結しない問題」を解決したいと思っている。何故かというと、僕自身もそういった課題を抱えている(抱えていた)からだ。(課題意識を持つことができるのは、いつだってその課題の当事者だ。)

でもそれは簡単な話ではない。口では何とでも言える。実際には、理想と現実の乖離はとても大きい。(自分の無能さにぐったりしてしまいそうになる位に。)だからこそ僕は成長する必要があると考えるし、その手段として自責思考で仕事に取り組む姿勢が大切だと考えている。

それは自分に向けるものであって、他者に向けるものではない

でもこういった「自責 対 他責」の考え方は、自分に対して向けるものであって、他者に向けるものではないと思う。自責派の人間が他責派の人間に自分の意見を押し付けようとしたところで、人は簡単に変わらない(もちろん逆もまた然りだ)。結局、自分の人生に責任を負うのは他者ではなく、自分なのだから、コントロールできない他者を変えようと躍起になるのではなく、コントロールできる自分を変えるために努めるしかないのだと思う。自分に厳しく、他者には優しく。当たり前のようだけれど、これが本当に難しい。

目的を見誤らない

でも「個人に帰結しない問題」については、他者についても関心を持つべきだと思う。社会的弱者と呼ばれる人は、実際に世の中に沢山いる。今日も彼ら彼女らは不安の真っただ中にいるのだということを忘れないように。

結局、自責も他責も手段の話でしかない。「その目的は何なのか」を見失わないようにしたいと思う。そのためにも、自分は何をやりたいのか、どうなりたいのか、を毎日考えることを怠らないようにしたい。


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