「自分が何を与えられているか」を考えるより「自分が何を与えているか」を考える

ここ数日、信じられない暑さでどこにも出かけたくない。でも、そんな自分の気持ちを知ることなく、友達からは容赦なしにお誘いがある。このうだるような暑さの中、外に出るからにはビールを浴びる以外にモチベーションが湧かない。今日はお腹を下すまでビールを飲もう。。

コントロールできることに集中する

基本的なことだけれど、自分にコントロールできないことに一喜一憂していても仕方ない。
それは仕事でもプライベートでも何でもそうだ。
組織で動くとき、自分が組織から「何を与えられているか」ばかり考えている人は、不平不満が多いように思う。
一方で、自分が組織に対して「何を与えているか」を考えている人は、常に努力を積み重ね、向上するために自問自答を繰り返しているように思う。

他責思考か自責思考か

これは考え方の根本が問われている問題のようなもので、結局、何か事象が起きた時に自分以外に原因を見出そうとする「他責思考」か自分に原因を見出す「自責思考」かによっても変わってくるのではないだろうか。
この「安定という言葉が幻」の時代に、自分が変わろうとせず、組織のせいにし続けていては、回り回って自分の首を絞めるような行為だと思う。

人は生きたように考えるから、考えたように生きないといけない

他責思考で生きてきた人間にこういった考えを伝えると、過剰反応してくることがある。
それは自分が生き方を否定されたように感じるからなのではないだろうか。
もちろんこちらは特定の他者に対して否定的な発言をすることはないのだけど、勝手に勘ぐって攻撃的な態度に出られることがある。
(その人が感じている攻撃性のようなものは、「自分の中から生まれている」ということに気づいていないようだ。)

自分の周りにそういうことをいう人はいない、というかもしれないけれど、それは「本当のことを言ってくれる人がいない」だけな気もする。「その人の考えに同調し、他者から何も言われない状況」と、「その人に見限られ、何も言われない状況」は似て非なるものだ。

安定があったこれまでの時代ならともかく、この先行き不透明なご時世に、思考停止のまま「周りと一緒ならいい」と考え、生きるのは危ないように思う。
自分の頭で考え、自分の意見を持つことが大切。自分の中に確固たる信念のない人には、どんどん価値がなくなっていく時代なのかもしれない。

人は生きたように考えるから、考えたように生きないといけない。

「自分が何を与えられているか」を考えるより「自分が何を与えているか」を考える

話を戻すと、組織に所属する以上、「自分が何を与えられているか」を考えるよりも「自分が何を与えているか」を考えることが大切だと思う。それがコントロールできることに集中するということだし、これからの時代に必要なマインドなような気がする。

最後までお読みいただきありがとうございます〜!よろしければシェアしていただけると嬉しいです!