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頑張る人を見るには、その場所に自分もいる必要がある

毎朝の習慣

僕は毎朝1時間半前に出社している。定時の9時までの間に1日のタスク整理、ニュースアプリや本を利用した情報収集、MOOCを通じた勉強等を行っている。

前も書いたけれど、今会社内では、働き方改革の影響で業務時間以外に仕事をすることに対する取り締まりがとても厳しくなってきている。毎朝早く出社している自分は、少し会社内で目をつけられていた。

会社に変にリスクを感じさせ、迷惑をかける位なら早朝の出社をやめようかと思っていたとき、上司に言われた。

「僕はダッチが毎朝早くきてやるスタイルがすごい良いと思っているよ。だから、つまらない理由でそれを辞める必要はないと思うけどね。」

後々、その上司が会社に対して僕が朝に仕事しておらず、信用しても問題ない旨を説明し、話をつけてくれていたことを知った。

努力できるのは運が良いから

よく「失敗は努力不足だ」と言い切る自己責任論の人がいる。僕も気持ちはわからなくはない。僕は普段から他責思考というより、自責思考でいたいと考えているからだ。

でも努力というのは前提として「努力できる環境を持つ必要がある」とも思っている。そして、それは自分でコントロールできるものではないとも。だから、自分はただ運が良いだけなのだと思う。努力したくても(外部要因によって)できない人がいることを僕は知っている。

だから、環境や状況、背景等が異なる様々な人たちに対して、「努力が足りない」と画一的な物言いをするのは違うと思う。努力できるのは「努力できる環境があるから」だし、「周りの人に恵まれているから」だ。

その「当たり前」に対する感謝の気持ちが抜け落ちると、そのような「少し歪んだ考え方」に至ってしまうのではないだろうか。

今回の話のように、陰でサポートしてくれる人がいる。そうした人たちに感謝の気持ちを忘れずに、毎日精進したいと今このnoteを書きながらも改めて思う。

頑張る人を見るには、その場所に自分もいる必要がある

今回の出来事から考えたもう一つのこと。僕をかばってくれた上司は、同じく毎朝早く出社していた。きっと僕が現場に入る前から、ずっとその習慣を続けていたのだと思う。

「見ている人はちゃんと見ている」というけれど、僕は「見ることができることはすごいこと」だと思った。うまく言えないけれど、それなりの役職について「俺は今まで頑張ってきたからいい」と走ることを辞めてしまう人も多いと思う。(それは今は亡き、終身雇用が約束された時代だったからこそ、言えた言葉だとも思うけれど。。)

でも現状に満足することなく走り続けている人もいて(かっこいいと素直に思う)、そういう生き方をしているからこそ、「同じように走り続ける人を見ることができる」のだと考えた。

つまり「頑張る人を見るには、その場所に自分もいる必要がある」のだと思う。

僕はまだまだ若輩だけれど、これから歳を重ねようとも、いつまでも陰で頑張っている若い人を「自分の目で見続けられるような」生き方がしたいと強く思った。




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