「昭和・平成の優秀さ」と「令和の優秀さ」の違い

梅雨明けは今月末までずれ込む可能性があるとのこと、勘弁してほしいと思いつつ、体調を崩しやすい時期なので、まずはしっかりと睡眠をとることを心がけたいと思う。ちなみに友人は最近、夜になかなか寝付けないとのことで、おそらく梅雨による日照不足も関係しているのだと思う。今日は週明け初日、あまり気負わず、肩の力を抜いて仕事を頑張ろうと思う。

「モテる」と「かっこいい」は両立し得るが、全くの別物

NewsPicksで気になる記事があった。

「“昭和的な優秀さ”が終わり、新たな価値観の時代がくる」というお題目の下、著作家の山口 周氏とオルビスの小林 琢磨氏の両名が対談しているのだけど、共感できる内容がとても多かった。

モノサシが少ないと、人々のニーズが収斂して、スケーラビリティが出るため、やはりメジャープレイヤーが有利になります。

どういう戦い方かというと、世の中をまとめてスキャンしたら、こういう潜在ニーズがありそうだという統計の世界で勝つという方法です。
このようなやり方が、これまでは一番効率が良かったのでしょうが、この統計の世界には明確なフィロソフィがありません。
しかし、世の中の価値観はますます多様化していくので、今後は明確なフィロソフィのないメガプレーヤーは、どの業界でも存続しにくくなってくると思います。

僕はこの文章を見て「モテる」と「かっこいい」の違いに構造が似ていると思った。これまでは世の中のトレンドを追って、時計や高級車にこだわり、お金を払ってジムで鍛える等、女遊びのために「目に見える所のみ」に投資し、「モテる」人間がちやほやされてきた。でも流行りに右往左往する彼らには、往々にして「中身がない」ことも多く、どこか金太郎飴的だったように思う。

一方で、これからは「中身のある人間」が、ますます輝くのではないだろうか。その人の中身(フィロソフィー)の「かっこ良さ」に惚れたした人たちによるコミュニティ(ファンクラブのような)が生まれ、輝くような。

これまでの「正解があった時代」であれば、上述の「最大公約数的なアプローチによるモテ」が適していたと思うけれど、これからの「正解のない時代」では「最小公倍数的なアプローチによるかっこよさ」が求められる気がする。

もちろん「モテる」と「かっこいい」は両立し得るものだとも思うけれど、これらの言葉は「似て非なるもの」だとも思うので、混在しないように。時代背景を鑑みると、令和時代にモテるには「かっこいい」が前提にないといけない時代になったと思うので、戦略も練り直す必要がある。(ちなみに、これは仕事のメタファーであって、モテ講座ではない。念のため)

小さな宗教団体が沢山出来ていくようなイメージ

ただ、僕的に考えると、「成長を目指さなくても何も問題はないのでは?」と思います。

フィロソフィの尖った商品を世に出すと、共感する一定のファン層がついて買い続けるという状態になります。

大手は、ずっと人口の50%が買いそうなものを市場調査ベースで作ることをやってきていますが、昨今はどこも苦戦しています。
対して、フィロソフィに合う人口の5%だけを対象にするなら、今の時代、テレビ広告は必要なく、SNSの口コミだけでも売れていきますから、とても有利なポジションにあるということです。

上述した通り、今後は小さな(最小公倍数的な)コミュニティが沢山生まれるような気がする。もっというと、それは「宗教団体のようなコミュニティ」になるのではないか。そういえばつい最近、ミュージシャンのカニエ・ウェストが宗教団体を設立する、というニュースもあった。

今後はフィロソフィに共感した人たちによる宗教法人のようなコミュニティが多数生まれ、その会員達が顧客になるようなビジネスが多く生まれるのではないだろうか。

課題のサイズとフィロソフィの抽象度の関係

しかし、そのブランドが世の中に広く知れ渡ると、消費者も「好き」「嫌い」の二極に収斂されます。なので、そこから先は、必然としてもうあまり伸びなくなります。
では、そこから先はどう伸ばすのかというとき、基本的には、エリアを広げるか、フィロソフィを多少ぼやかして、あまり好きではなかった人も取り込めるようなものを作っていくかしかありません。ほとんどの企業は、その両方をやります。
しかし、価値観のコアな部分までぼやかしていくと、ブランド自身が曖昧になってくる。それで、あのラグジュアリーブランドは駄目になったという例は枚挙にいとまがありません。
例えば、エルメスがエルメスであり続けられるのは、まったく成長しないからだとも言えます。実際、エルメスは「成長を目指さない」と明言しています。
その理由は、成長を目指すと、どこかで必ずエルメスの顧客になるべきでない人まで顧客にしないといけなくなるからです。だから、非常にアンビバレントというか、難しい構造だと思います。

課題のサイズとフィロソフィの抽象度は相関しているように思う。ある程度大きな課題を解決しようとしたら、それだけ多く人を巻き込まないといけない。そのためには「最大公約数的なアプローチ」で「汎用的なフィロソフィ」を描かないといけないのは仕方のないことだ。また企業には「ゴーイングコンサーンの前提」が付きまとうため、課題と解決が固定しずらいというのも大きいと思う。その上、ある程度の売上を見込まないといけない。

これらの理由が大企業のフィロソフィの抽象度を上げるのではないだろうか。もちろん一長一短あるだろうけれど、抽象度を上げた結果、その価値までぼやけてしまっては本末転倒だ。

エルメスが「成長を目指さない」と言っているように、これから求められるのは「顧客規模」というよりは、「顧客のエンゲージメント率」なのだと思う。もう企業規模でドヤっている場合ではないのかもしれない。

努力するのは当たり前のこと。パレートの法則ではないけれど、20%を見極め、努力のためのリソースを割くことが大切だ。

「昭和・平成の優秀さ」と「令和の優秀さ」の違いを理解することは、自分が努力すべき方向性を教えてくれるもので、今後ますます大切になるように思う。

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