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自分の意見を言わない人

判断材料は多数派か否か

仕事やプライベートで様々な人と会話をすると、自分の意見を言わない人に出会うことがある。いや、正確には意見は言っているのだけど「自分の頭で考えていない」人がいる。彼らがやっているのは、その場においていち早く多数派の意見をキャッチし、さも自分の意見かのように発言するという「作業」だ。言うまでもなく、そこに自分の信条や思想めいたものは一切ない。

(ちなみにこれは年齢はあまり関係ないように思う。良い歳しながらも、自分の頭でものを考えられない人は意外に多く、そのことにいつも驚かされている。)

話すのが面倒くさく、右から左に流しているわけでもなさそうだ。彼らは自分の意見(正確にはその人の意見ではないのだけど)と異なる意見を出すと、なぜか鼻息荒く反論してくることがある。(こちらは理性的に語っていただけに、その豹変ぶりに驚かされることもある)

良い子と言われてきた人程、親や教師といった周りの大人の顔色を伺うことにコストを費やし、自分の頭で考えるということを放棄する傾向にあるのではないだろうか。彼らは違和感を持ったとしても、そんなことを考える暇があったら「もっと良い子と言われるには、どうすれば良いか」を考えたほうが得だと考える。(僕がそうでないということは、僕が劣等生ということなのだろうけど、それは否定しない。)

つまり彼らは「正解と言われているものが何か」や「多数派か否か」を基点に物事を考える。(まるでそれにすがっているようにも見えるが)

当然の帰結として、彼らは少数派として孤立することを極端に恐れ、「群れる」。

大変なことだけど

自分ひとりで考える時間を設け、答えのないことを考え続けるのは大変なことだ。朝早く起きるのがつらいのと同じように、ある程度自分にストレスがかかることかもしれない。

でも、そこから逃げてしまうと結局「自分が何で生きているのか?」「自分は何をやりたいのか?」といった人生の本質のようなものには、いつまでたっても出会えないと思う。

「違和感を育てるのを辞めること」は、「自分を殺すこと」と同義だと思う。それに慣れてしまった人から、人間味のようなものは消え去り、温かみのないロボットのように変わっていってしまうのではないだろうか。(朝の品川駅の通勤風景が大量のロボットの群れに見えるのは、このことと無関係ではないと思う)

スティーブ・ジョブズの死生観の話ではないけれど、ひとりの人間として自分の人生を生きるためには「群れから脱して、自分ひとりで考えること」から避けては通れない。

僕がほぼ毎日、一人で散歩する時間を設けている理由の一つは、こうした考えが背景にある。

(後、もう一つの理由はラーメンの食べ過ぎによるダイエットだ)

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