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普通賛歌

昨日、「ザ・ファブル」という映画を観てきたので、感じたことについてつらつらと書いてみようと思う。

ザ・ファブル

まずは映画のあらすじから。

どんな相手でも6秒以内に殺す。
“ファブル(寓話)”と呼ばれる謎の殺し屋(岡田准一)は、裏社会では誰もが「伝説」と恐れ、その存在の真偽さえ訝しがられる男。
“ファブル”を育てあげたボス(佐藤浩市)は、あまりにハイペースで仕事をこなし続ける彼に、ある指令を与える。

「一年間、一般人として普通に暮らせ。休業中に誰かを殺したら、俺がお前を殺す」

ボスには絶対服従の彼は“佐藤アキラ”という偽名を使い、相棒のヨウコ(木村文乃)と兄妹のフリをして大阪の街へ。
ボスのツテで真黒カンパニーの社長=海老原(安田顕)に世話になりながらも、生まれて初めて、一般社会に溶け込もうと真面目に努力し始める。
毎日ヒマをもてあまし飲み歩くヨウコとは対照的に、ボスからもらったインコを大事に育てたり、アルバイトをしてみたり。
街で偶然出会いバイト先を紹介してくれたミサキ(山本美月)や、バイト先の社長=田高田(佐藤二朗)とも徐々に親しくなっていき、普通の生活を満喫し始めるアキラ。「プロの普通」を目指し精進する日々だったが、周囲はアキラを放ってはおかない。
海老原の弟分で出所したての小島(柳楽優弥)と組織の現幹部=砂川(向井理)の確執、ファブルを伝説のレアキャラのように執拗に追い続ける若き殺し屋=フード(福士蒼汰)などが少しずつ、確実にアキラの穏やかな日常に忍び寄る。

そして事件は起こった――。実はある過去を持つミサキが、拉致されてしまったのだ。
ヨウコと共にミサキの救出に向かうアキラ。そこに「絶対に殺してはいけない」というボスの鉄の指令が立ちふさがった時、アキラは自分のこの並外れた能力が初めて「人を救うこと」に使えるのではないかと気付き始める。
だがそこには想像を絶する強敵と、いくつもの罠が待ち受けていた。
果たしてアキラは「殺さず」の指令を守り通せるのか?
そして平和な毎日は戻ってくるのか……!?

僕はもともとこの原作が大好きで、映画化が決まった日からずっと観に行くのを楽しみにしていた。(コミックも本当におすすめなので是非機会があれば読んでみてほしい。「2019年6月24日時点」で「18巻」まで出ている)

僕が最初にこの漫画の存在を知ったのは、仲の良い友人に「この漫画の主人公の雰囲気にお前が少しだけ似ている」と言われた時だった。そう言われると読みたくなるのが人情。試しに1巻をKindleで読んでみたら、その面白さにハマり、全巻大人買いし、一気読みしてしまった。結局、友人に言われた僕が主人公に似ているという発言は「ただのDIS」としか感じなかったのだけど、そのことに関する考察は今日は割愛しようと思う。

MVPは文句なしで主役を演じた岡田准一

この漫画を実写化するのは無理なんじゃないか、と思うくらいにこの漫画に出てくるキャラクターはみんな癖が強い(こういうことを書くと、主人公に似ていると言われた自分としては複雑な気持ちになるけれど)。

主人公の佐藤アキラだけではなく妹の佐藤ヨウコ、(アキラの)バイト先の仲間やお笑い芸人のジャッカル富岡etc,,,

でも見事に各俳優陣はそれらの癖の強いキャラクターを、原作の色をしっかりと残しながらも演じきっていた。これは素直にすごいことだと思う。特に主役の岡田准一さんは頭一つ二つ飛び抜けた再現度だったように思う。

アクションシーンはもちろん素晴らしかったのだけど、僕が感動したのはギャグシーンだった。この漫画はシリアスなシーンと同じくらいギャグ要素も多く、岡田さん演じる主人公もおバカシーンが盛り沢山なのだけど、そんなシーンでさえも忠実に再現されていた。

きっとみんなもそうだと思うけれど、僕は漫画を読むときは、自分の中で勝手に登場人物に動きをつけて読み進めていく。セリフの喋り方やトーン、リズムにキーの高さ等も含めて脳内で勝手にアニメ化し、再生する。だから実写化の映画を見るときは、そのイメージと大きくかけ離れてしまわないかがいつも不安になるのだけど、その点については岡田さんの演技はバッチリだった。とにかく自分のイメージ通りだったのだ。

また身体面においてもバッチリ。伝説の殺し屋ということで、かなり鍛え上げていたようだった。あれは一朝一夕のトレーニングで身につく体つきではなかったように思う。漫画の言葉を借りるなら「あー、プロだ・・・・・・」だ。

本当の正義は格好悪い

拉致されたミサキを救うため、敵対組織の倉庫に乗り込み、戦闘を開始するアキラ。普段だったら簡単なミッションも「殺さず」の指令を守りながらとなるとそれは、大きな足枷となる。ファブルは普段であれば負うはずのない怪我をしながらも、前に進み続ける。それは一見、最強の名を欲しいままにしてきた「ファブルの名が廃るようなシーン」にも見えた。つまりファブルが格好悪く映るシーンだった。

人を殺すという安直な手段を使わずに、周りの人を助け、誰かのために生きるということは格好悪いことなのかもしれない。当たり前のこと、普通であることを前提とした仕事は時に格好悪く映るものだ。そうならないように、格好良いまま、面子を保ち続けるには、時に汚く、姑息な真似もしないといけない。これは何を捨て、何を得るのかという話で、何が正解という話でもない。ただこのことから学ぶことができるのは、本当の正義は格好悪いということだと思う。

普通賛歌

この映画は「普通賛歌な作品」だと思う。特に最後のシーンがもっとも印象的だった。裏組織を仕切ってきた一人の男(海老原)が、ずっと自分が可愛がってきた舎弟を自らの手で殺すシーンがある。舎弟の不義理のけじめとして。その後、高級そうなスーツを身に纏いながら、高級ステーキ屋でビールを一人飲んで涙する。面子を最優先に生きてきた男の背中はどこか小さく、それが格好いいかと言われると少し疑問になった。

一方でその後映し出されるのがアキラのバイト先の様子。決して綺麗な事務所ではなく、生活臭に溢れる部屋の真ん中で、田高田社長が「金がない」と頭を抱えるシーンがある。周りにいる社員一人ひとりの生活を守るために、電卓を叩き、毎日必死に仕事を頑張っている描写は、海老原の生き方とはとても対照的に映る。見た目の格好良さはさて置き、誰一人殺すことなく、全うな仕事で生活費を稼ぐために一生懸命な姿は、僕にはとても格好良く見えた。

本当の正義は格好悪い。そしてそれは一見遠回りに見えるような道だし、非効率で損なものかもしれない。でも本当の格好良さは、こういう目に見えない所にあるような気がする。

思うことを思うままに書いていたら、なぜか上杉鷹山の言葉を思い出した。今日のnoteは、僕の好きな上杉鷹山の言葉を紹介し、締めようと思う。

私の改革に汚れ役はいらぬ。どんなに時間がかかろうと、反対があろうと、私は清い政治を貫く。米沢を再びにごった沼にしてはならぬ。汚れ役が根回しをすれば、確かに仕事の進みは速かろう。が、私はそういう姑息な道はとらぬ。私の改革は、どれほど道が遠かろうと、清い方法で歩く。それは、領民のためである。改革は領民のためにおこなっているのだ。領民の眼にいささかの汚れも見せてはならぬ。

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