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まずはエゴを自覚すること

エゴについて

一昨日、昨日に引き続き、今日も少しだけ関連する話を。(もともと話を繋げる気は無かったのだけど、書きたいテーマがたまたま出てきたので書く。書くテーマ枯渇組としてはとても助かる。。)

昨日のnoteでは「自分のエゴに自覚的であるかどうかで大きく変わってくる」ということについて少し書いた。これは個人的に語りたいテーマで、少し思うところがあったりする。

エゴ(言い換えるなら「自分可愛さ」)をどのようにマネジメントするか、はこれからを生きる上でとても大切なテーマだと思う。

もちろん僕にもエゴはある。生活をしていて、自分の中に強烈なエゴを感じることは多く、そんな時はいつも自分の弱さを思い知らされるし、自分に対して嫌気がさすときだってある。「自分は何て小さい人間なのか」と落ち込んでしまったりも。

だから、「エゴをマネジメントすること」がどれだけ大変であるかは、骨身にしみてわかっているつもりだ。

でも僕が考えているのは「エゴを自覚すること」だけは、最低限のマナーとして必要なのではないか、ということだ。

例えば仕事だとわかりやすい。

自分がやりたくない仕事を、それらしい理由を付けて人に振っていないか。

問題解決よりも、自身の立場や安全を優先した意思決定をしていないか。

(その仕事を)自分よりうまくやれる人がいたとしても、権限を委譲することなく、自分でやろうとしていないか。

うまくいかないことがあった時、自分を変えることなく、他者を変えようとしていないか。

問題の原因を会社や身の回りにいる人等、外部環境のせいにしようとしていないか

etc...

こうやって書いていくと自分が「エゴをマネジメントできている」とは到底思えない。(これを書いている今も自分の中にあるエゴを感じ、少し嫌な気持ちになっている)

例えるなら

もう少し、わかりやすく考えてみる。

例えば、二人の泥棒がいたとする。

泥棒Aは自分のやっていることの罪を自覚しながら、悪事を働く。

一方で泥棒Bは罪を自覚せずに、悪事を働く。

みんなはどちらの泥棒が「質が悪い」と思うだろうか。

僕は後者だと思う。罪の自覚なく悪事を働く人は、思考停止に陥っているように思う。自分のやっていることを都合よく解釈し、「自分を正当化」しようとする。なんなら悲劇のヒロインを気取り出す可能性だってある。

「私は悪くない。悪いのは、私を泥棒にした周りだ」

もしこんな発言を「泥棒に入られた人」が聞いたら、何と思うだろうか。

でも彼ら(泥棒B)がそのことについて考えることはない。何故なら、そこまで思考を進める前に、思考が停止しているからだ。

一方で前者の罪を自覚している泥棒Aはどうだろうか。

自分の罪の重さを受け入れているから、まだ改善の余地があるだろうと思う。罪を自覚するということは、苦しい作業だ。でも、そのことから逃げてしまうと、いつまでたっても人間的な成長はないと思う。

この泥棒の例は少し極端な例えかもしれないけれど、結局「エゴを自覚するかどうか」も、この話に似ていると思う。

人に迷惑をかけないなんて無理

まず前提として、人に迷惑をかけずに生きるなんて無理な話だと考えている。僕が言いたいのは「人に迷惑をかけてはいけない」ということではない。

このnoteで言いたいことは、自分のエゴが理由で人に迷惑をかけてしまう場合に関しては、「そのエゴを自覚しておこうよ」ということだ。

エゴそのものをなくす、というのは本当に大変なことだと思う。

エゴがないという人は、ある種、人生を達観している人だと思う。僕は未熟だから、まだまだその境地にはたどり着かない。

もちろんそうなりたいと強く思う。未熟な自分がそうなるためには、日々精進するしか道はないと思うのだけど、(そんな自分が)まずやれることは「エゴを自覚すること」なのだと思う。(重要だと思うので、二回目。いや三回目か。)

仕事をする上でも、意思決定に自分のエゴが見え隠れしていないか、もし見えたのであれば、可能な限りそれらを排除するように努める。

少しでも自分の心がざわつくことがあったら自戒するように。

まずはそこからはじめようと思う。

道のりは遠そうだけれど、自分の身の丈を知り、研鑽に努めたいと思う。

時間になったので、今日はここまで。

明日のnoteは「なぜエゴをマネジメントする必要があるのか」について書こうと思う。

ここ数日、書くテーマが勝手に降りてきてくれてとても助かる。。もうC級ポエムフリースタイルnoteを書くことにならなければ良いのだけど。。

今日も仕事を頑張ろう。

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