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『ダブドリ Vol.17』インタビュー01 並里成(群馬クレインサンダーズ)

2023年5月12日刊行の『ダブドリ Vol.17』(株式会社ダブドリ)より、並里成選手のインタビュー冒頭を無料公開します。

 他の選手とは何か違う。うまさとかっこよさが共存する並里成。10代から注目を浴び、スポットライトを浴び続けた沖縄が誇るスターだ。しかし、そのストーリーは決して順風満帆ではなく、道を外れそうになった時もあれば、夢を目前に挫折を味わった時もあった。それでも支えてくれた人たちのために並里成は並里成であり続ける。そんな彼の原点を探った。(取材日:3月24日)

Interview by 宮本將廣/photo by 石川元

僕らはただ言われるだけじゃなくて、松島先生の背中を見て育ったんです。

宮本 唐突ですけど、最初にこちらを見てもらいたくて、2000年の全国ミニバス大会のメンバー表と記事です。
並里 うわー、めっちゃ懐かしい!
宮本 この全国大会に出ていた友達が「沖縄はやばかった」って話していたのが印象的で、母親に実家の月バスの写真を送ってもらいました(笑)。沖縄県代表諸見小学校。並里選手も当時4年生で、試合にも出てましたよね?
並里 出てました! すごいところを拾ってきますね(笑)!
宮本 当時は4つのブロックに分かれていて、それを勝ち上がった4校が優勝扱い。Dブロックの優勝が諸見小でした。
並里 そうです! ブロック優勝したんですけど、監督が1位を決めたいって僕ら以外の3つの優勝チームに連絡したんですよ。練習試合をしようって。
宮本 え、そうなんだ(笑)!
並里 結局、練習試合はできなかったんですけど、僕らは絶対に全国のトップだっていう自信はあったんですよ。
宮本 昔のことは覚えています?
並里 覚えてます! この時のこともめちゃめちゃ覚えてます。
宮本 実は今回の表紙、インタビューが並里選手に決まった段階でインタビュアーは決めていたんですよ。
並里 誰ですか?
宮本 松島良豪(国士舘大学男子バスケットボール部アシスタントコーチ)!
並里 ハハハハハ。
宮本 残念ながら都合が合わず……。
並里 なんだよー(笑)。うわー、これはかなり深いですね!
宮本 結果、僕が担当させてもらうことになり、僕の中で並里成を辿っていったら、原点はここかなって。
並里 ここです! 間違いないです!
宮本 当時の諸見小学校では、残念ながら亡くなってしまいましたが、松島良和先生が指導されていました。良豪くんとお姉さんの有梨江さん(三菱電機コアラーズアシスタントコーチ)のお父さんですね。良豪くんも「次は並里選手でこういうのがあるんだけど」って話したら、「成さんなら、ぜひやらせてください!」って言ってくれたんですけど。
並里 うわー、話したかったなあ!
宮本 それはまた次の機会に(笑)! 今回は沖縄で培ったバスケ、並里成の原点を紐解いていきたいなと思っています。色々聞いていく前に読者にも少し説明をすると、この2000年全国ミニバスは諸見小の女子も出場していました。そこに有梨江さんが選手として、女子のコーチも松島先生がされていました。
並里 そうですね。
宮本 そして有梨江さんのコザ中進学に合わせて、松島先生もコザ中に行った?
並里 そうです。でも、当時はミニバスもコザ中も両方見てたんですよ!
宮本 あ、そうなんですね。
並里 はい。でも、先生の中で松島姉ちゃんの世代は指導したいっていう気持ちがあったんだと思います。そういう意味では、僕の世代も先生の中で何かを感じたんですかね。2年後に僕らがコザ中に上がるタイミングで中学だけ指導することになったんです。
宮本 置いて行かれた良豪くん(笑)。
並里 そうそう(笑)。
宮本 僕がすごいなって感じているのは、沖縄って簡単に言うとバスケが根付いている。独特のリズムやスキルがあり、そこに松島先生の指導と情熱が入っていた。この共存が並里成の原点なのかなって思ったんです。
並里 いいところつきますね(笑)!
一同 ハハハハハ。
並里 松島先生は本当にすごい人で、僕らは毎日朝練があったんです。外を5キロぐらい走っていたんですけど、先生が1番に体育館に来て、1番に走る。しかも1番速い! それを毎日やっていました。僕らはただ言われるだけじゃなくて、先生の背中を見て育ったんです。バスケでいうと、とにかく気持ちがないプレーは許さない。やるなら徹底的にという人でした。あと先生はアメリカの大学バスケがすごく好きで、そこから情報を得たり、実際にアメリカに行って学んでいましたね。当時から僕らはシェルディフェンスだったり、UCLAカットとかをやっていました。そういう本物のメニューをこなして、自分たちは成長していきましたね。

パスするまでの過程はプロに入ってから身につけました。

宮本 並里選手が中学3年の時にコザ中が九州大会で1位になって、2004年の東京全中に出場します。当時県大会でも九州大会でも沖縄の北中城とバチバチやっていて、九州大会はコザが優勝するけど、全国では北中城が優勝しました。
並里 めっちゃ知ってる(笑)! 僕が話すことないですよ(笑)!
一同 ハハハハハ。
宮本 いや、過去の実績は聞きたいところではなくて(笑)。並里選手の絶対的な凄さって、当時から並里成であり続けているところだと僕は勝手に思っているんです。時代に合わせて求められる選手になっていく選手も多い中で、自分の原点や信念を失わずに成長してこれたのが並里成というか。
並里 なるほど。なんなんだろうな、自分でもわかんないかもしれない(笑)!
一同 ハハハハハ。
並里 でも、自分らしくいようとはずっと思っていました。自分で言うのもあれですけど、普通の選手とは違うなって感じていて、今でも味方がここらへんに走ってくるから、どう駆引しようかって一瞬でイメージできたりするんですよね。この感覚は昔からあって、大事にしようと思っています。
宮本 それは習ったものではなくて、昔から持っているものなんですね。
並里 そうですね。ハンドリングとか顔をあげてボールを強くとか。そういうのは先生から習いました。でも、一瞬の緩急とかは習ってないですね。
宮本 なるほど。僕は並里選手のプレーでこれはめちゃくちゃうまいなと思っているのが、ペイントに入った時の最初のドリブル。その強さと姿勢が圧倒的に上手いと思っているんです。バンってついて、ボールをホールドしたときのビジョンが……。
並里 なんかすごいな、もう(笑)。
一同 ハハハハハ。
宮本 その時にビジョンが全部取れていて、ボールが手についている時間が長いから、すべての選択肢を持てる。あれは習ったんですか?
並里 あれは自分で身につけましたね。昔は緩急だけで簡単に行けていたんです。だからそこの選択肢がなくて、ミスをしてしまっていたんですね。それを考えて、自分で基礎に変換するというか。その場面でパスもできる、シュートもできる、アタックもいける。そのためにはどうするべきかをプロに入ってから自分で考えましたね。小学校の時からビハインドパスだったり、ノールックパスはできていました。でも、そこに至るまで、パスするまでの過程は、プロになってからだいぶ深くなったと思いますね。
宮本 それは何かきっかけがあったんですか? プロとなると、最初は栃木ブレックス(現宇都宮ブレックス)ですよね? ガードだと田臥勇太選手がいますけど。
並里 基礎の大切さは、田臥さんからもすごく学びましたね。田臥さんも結構トリッキーなことをするじゃないですか。でも、あの人もその中に基礎がある。必ず相手を見極めているし、見極めているときにボールをどこで保持するか、足の置き方とか、選択肢を失わないようにする大切さ、そういうのは田臥さんから学びましたね。ただ聞いたわけではないです。あの人を見て、学びました。

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