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プロ化の源流(6) 「秋田でもできる」新アリーナで追う新B1優勝の夢/秋田ノーザンハピネッツ社長 水野勇気

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 秋田ノーザンハピネッツがプロチームとしての初戦を迎えたのが2010年秋。当時27歳だった水野勇気は、今もクラブを引っ張り続けている。
 秋田はbjリーグの成功モデルとして経営と強化の両面で結果を出し、B.LEAGUE誕生の荒波も乗り越えた。しかし歩みが順風満帆だったかと言えばそれは違う。あるときは2リーグの併存、あるときは経営規模の大きなクラブとの合流、あるときはB2降格という具合に、難しいチャレンジを強いられてきた。
 2026年秋には「新B1」がスタートする。条件が大幅に引き上げられる中で、彼らはかなり高いハードルを跳び越えねばならない。最終の第3回では水野社長が過去と現在、そして未来の“チャレンジ”を語っている。

[ Interview by 大島和人/Photo by 本永創太 ]

*この記事は試し読みです。全編掲載のダブドリVol.17はココから↓

―― 今回は秋田ノーザンハピネッツが2010-11シーズンにbjリーグへ参入した後の話をお聞きします。2季目に勝率が5割を超えて、4季目の13-14シーズンには(準決勝、決勝の開催地)有明まで勝ち上がりました。経営的にも黒字が続いていた中で、水野さんはどんな未来を考えていたんですか?
水野 そこまではっきりした記憶はないですけど、二つのリーグが併存している限界を感じ始めていたと思います。クラブは年々成長しているけれど、今のままだと難しい部分があるだろうなと。そんな中で統合の話が出てきました。
―― 「これでいいのか」という問題意識はお持ちだったんですね。
水野 だからこそ(bjリーグとNBLの消滅とその後のB.LEAGUE発足が)まとまったと思います。川淵(三郎/B.LEAGUEとJリーグの初代チェアマン)さんの存在は大きかったですけど、皆がジレンマを感じていたからこそ、動きに乗っかろうとなったわけです。
―― 水野さんも自分たちのチームより、外に問題意識を持っていたわけですね。
水野 当時の仕組みだとメジャースポーツにはなっていかないし、自ずと限界が来てしまう。それこそ当時は島田さん(島田慎二/現B.LEAGUEチェアマン)が千葉ジェッツの代表で、bjからNBLに行く決断をしました。当時の代表者会議で島田さんが脱退する話をしたときの空気は……。
―― 私も島田さんから「針のむしろだった」と聞いたことがあります。
水野 自分も「島田さん、すげえ……。本当に行くの?」と驚きました。だけど当時は楽しかったです。代表者会議の後なんて(各クラブの社長で)飲みに行ってました。田町の事務所近くの、何という店だったかな……。中国人のおばちゃんがいて、そこで飲むんです。
―― 河内敏光コミッショナー以下、リーグのトップも来るんですか?
水野 来ます来ます。

有明で歌った県民歌

―― 12-13シーズンの途中に、当時20歳だった富樫勇樹選手が帰国して秋田に加入して大活躍をしました。
水野 カズさん(中村和雄ヘッドコーチ)が「すごいやつがいる」と言って連れてきたんですけど、当時は給料も安かったですね。
―― 富樫選手が千葉ジェッツで2018-19シーズンのMVPを受賞したとき、カズさんが「年俸は100万円だった」とバラしていました。
水野 1年目はシーズン途中だから(半年分で)100万ちょっとじゃないですかね。
―― bj最後の3シーズンは準優勝、準優勝、3位でした。
水野 まず(2014年に)有明に行ってブースターが県民歌を歌って、ワーッとなったとき「チームを作ってよかったな」と本当に思いました。チームを立ち上げる前から、そんな光景を作りたいというのが願いでしたから。
 ノーザンハピネッツを立ち上げる前ですけど、沖縄(現琉球ゴールデンキングス)と東京アパッチのファイナルを見に行きました。沖縄の応援が当時からすごかったんです。ブースターが指笛を鳴らして、名物だった白鳥の人がいて……。白鳥の人、どこ行ったんですかね?
 とにかく沖縄出身の人たちがいっぱい応援に来ていました。それを見て、自分たちもこの場に来て秋田を盛り上げたいという思いが沸き起こりました。それが本当に実現した感慨は強くありました。
 でも最後(16年5月)の有明は準決勝で富山のブースターに県民歌を防がれたんです。富山さんは別に間違ってなくて、あれを試合前にやると(秋田を後押しする)空気感が出るわけですから、相手のブースターがそれをかき消すのは当然ですよね。リズムを狂わされた感じがあって、「やられたな」と思いました。
宮本 オールブラックスのハカを邪魔するみたいな感覚ですね。
―― ラグビーも相手はハカのタイミングでよそ見をしたり、腕組んでにじり寄ったり、色々な工夫をします。
水野 あとチームに関わることが多くなればなるほど、勝ちたい気持ちはどんどん出てきますよね。一番優勝に近かったのは14-15シーズンの浜松・東三河フェニックス戦で、あれは今考えると勝てた試合だったと思います。2点差で敗れたんですけど、悔しかったです。

ホーム移転の悩み

―― リーグが二つに割れて、日本バスケットボール協会も混乱する中で、国際バスケットボール連盟(FIBA)が問題解決に関わってきます。川淵さんがチェアマンになって、2015年初頭から新リーグ創設の動きが始まりました。
水野 「これではメジャースポーツにならない」という思いが常にあったので、一つのリーグにするのが必要なプロセスだと思っていました。でも両リーグで予算がかなり違いました。
―― 当時のbjは経営規模が小さかったし、サラリーキャップもありました。あと新リーグの1部に参入する条件は2億5千万以上の売上、5千人収容のアリーナです。当時の感覚としてはかなり高いハードルです。
水野 予算はクリアしていました。5千人収容のアリーナは検討が必要でしたけど、CNAアリーナ☆あきたを改修すれば何とかなりそうでした。ただ県立体育館からCNAアリーナ☆あきたに移ること自体、本音としては嫌でしたよ。
―― 理由はやはり「高すぎる天井」ですか?
水野 音が抜けてしまうんです。あれがもっとコンパクトだったら、もっとすごいはずです。宇都宮ブレックスみたいな(客席とコートが近くて天井の低い)会場だと、圧力を出しやすいですよね。
 元々僕らの聖地と言われてたのは県立体育館です。一回(CNAアリーナ☆あきたの)天井を覆えないかと試算してもらったことがあります。フィリピンで見たんですけど、天井の上にクッションみたいなモコモコしたものを入れるやり方があって、防音効果を出せます。確か1億円以上という結論で、無理だなと諦めました。
―― フィリピンに行かれたのはバスケ関係ですか?
水野 安藤誓哉(の獲得)ですね。
―― 安藤選手はフィリピンから直で秋田入りでしたっけ?
水野 フィリピンから宇都宮ブレックスに行きましたけど、その頃から声をかけていました。
―― B.LEAGUEが始まって、初年度からまあまあ盛り上がっていました。社長としては一息ついた感じでしたか?
水野 いや、選手の年俸ばかり上がるなと。そこじゃないですか?
―― 開幕前からそうでしたか?
水野 1年目は今考えると優しいものです。「他が使ってるからウチも増やそう」と、どんどん膨れ上がっていきました。降格もあるので、コロナ前まで年々増えていましたよ。
―― B1初年度は秋田も保守的な予算を組んでいたんですか?
水野 そんなことはないと思います。ただ外国人選手の補強は、今の方がやはり精度が上がっています。bj時代は多くのチームが、ハイライトを見て外国人選手の獲得を決めていたはずです。でも今はそれこそ全部クリップされてオフェンスとディフェンスで別々に見られますし、試合を通してみればベンチの振る舞いも追える。だから、性格的な部分でハズレを引く心配が少ない。
―― ベンチの様子も見られるってことですか?
水野 コーチは見ているはずです。例えばペップ(ジョゼップ・クラロス)はその辺をすごく見ていました。

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