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死ぬ前まで食べたい100の美菓 飴ちゃん

年が明けると、山形市の「初市」では初飴が売られる。最上義光公の時代、山形には定期の市が立つ市日町があり、毎年1月10日に市神祭りとして、十日町から七日町にかけて多くの露店が立ち並ぶようになったのが始まりとされている。

最上義光は鶴岡でも市を奨励し、五日町、七日町、十日町、一日市町などの町を城下に整備してきたが、昭和に入り、町名変更が行われ、時の有識者とかいう郷土史の先生の一声で、最上義光由来のものはすべて消し去り、町名からも消えている。たぶん鶴岡でも初市は開かれたのだろう。
山形の初市の名物「初飴」は、元々、半紙に紅白の飴を15〜16個ほど盛り付けて、紅花の筵干しの様子を表し、市神様に御供えしたものといわれ、紅花が豊作で紅花の商売が上手くいくようにという祈りが込められていたという。

盛飴や、飴を持った紙に竹の棒をつけて持てるようにしたために旗飴と呼ばれていました。現在は切飴に形を変えて、福を呼ぶ縁起物として、初市で売られている。

忠犬ハチ公が生まれた秋田の大館にも、小正月の行事として、アメッコ市があり、東北の御当地飴の店も出る。

信州松本でも初市で初飴が売られる。松本は飴の一大産地で、その由来は上杉謙信が武田信玄に送った塩にある。塩が越後から送られたのを祝い、松本で塩の市が開かれた。

その当時、松本地方は飴の生産量が日本一で、住民たちは塩俵の形をした飴を作り、飴売り商人が大勢売り歩いたため、塩市はいつのまにか飴市と呼ばれるようになったそうな。

街頭紙芝居と飴屋は切っても切れない関係にある。飴売りは紙芝居屋の貴重な収入源だったが、パフォーマンスしながら物を売って、その収入を生業とする元祖は、幕末から明治、大正のはじめまで街頭に立った唐人飴売りだとされている。

紙芝居の元祖とされる、三遊亭圓朝の弟子新さん考案の立ち絵の頃から、同じ落語家出身の後藤時次郎考案の平絵まで、その生業を支えてきたのも飴売りで、丸山善太郎や大河内元三郎らのテキヤの元締め達は、絵の貸出料の他、信州や越後特産の薬飴などを紙芝居師達に卸して、それを収入源としてきた。

路上でパフォーマンスし、飴を売る商売人は、江戸時代から存在し、なかでも唐人飴売りは派手で、奇抜な衣装を身につけて街頭を歩き、チャルメラを吹き、楽器を奏でたり歌を歌ったりしながら飴を売っていた。

夜鳴きラーメンのチャルメラ吹きはこの唐人飴売りを真似たとされている。

このほか、飴売りのスタイルでは、上方落語に出てくる「孝行糖売り」、修行僧のいでたちで売る「念仏飴売り」、奥州から出てきたという土平が、「どへぇ、どへぇ、飴どへぇ」と歌う「土平飴」、からくり人形を操りながら売る「鎌倉飴などがある。私の山形からも、羽黒山伏が薬草飴を売っていた記録もある。その薬草飴の一つが黒川で作っていた薄荷飴だ。

年末にかけて春歌の話で恐縮だが、私が若い頃、酔うとビール瓶を股間に挟んで振る「よかチン音頭」を演ったが、この歌は唐人飴売りの「よかよか飴売り」の口上から来ているようだ。私の心の師、小沢昭一さんの本やCDの中にも「よかよか飴屋」を踊るおばちゃんの話が出てくる。

そんな唐人飴売りが街頭に出た時期と、立ち絵、平絵が街頭に出た時期、そしてチンドン屋も街頭に現れた時期はほぼ一緒で、お互い、生業としてはバッティングしながらも、共に繁盛してきた。

もう一つ、これはまだ確証はないが、テキヤの親分丸山善太郎は信州の出身だから、紙芝居屋が売る飴の作り方を教えたのは、丸山親分だったかもしれない。

無口な日本人は絵を通してパフォーマンスし、絵を描かないで身体でパフォーマンスしたのが唐人飴売りで、まさにチンドン屋のノリだったが、チンドン屋は広告料を得ていたが、唐人飴売りはとにかく飴を売るしかなかった。また、その頃紙芝居師は香具師の傘下にあったのに対して、唐人飴売りは組織に属さないで、独自の売り方をしなければならなかった。

紙芝居師も唐人飴売りも、その後、第一次世界大戦や太平洋戦争を経て、街頭から姿を消したが、戦後、紙芝居師だけが復活し、唐人飴売りが再び街頭に立つことはなかった。

錦絵の中にさまざまな唐人飴売りが登場し、その姿はまさにチンドン屋であったり、大道芸人だったりしているが、このパフォーマンス、もしかしたら、現代の多様化している紙芝居表現に活かせるかもしれない。

来年、紙芝居屋もっけは、飴売り紙芝居を演ってみようとと思う。

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