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死ぬ前までに食べたい100の美菓 小豆モン


講談と落語の源流とも言われるのが、御伽衆達の辻噺、つまりおとぎ話だ。戦国時代、織田信長が側に置いたのが野間藤六という御伽衆で、藤六が信長に聴かせて大笑いさせたのが、「小豆がこわい」という噺で、これが後に落語の「まんじゅう怖い」になっている。

藤六は、意地悪な城の女たちから「怖きものは何?」と問われると、「あずき餅ほど怖きものなし」と答え、まんまと好物のあずき餅をせしめたという噺が残っていて、それが落語にアレンジされた。

甘党で大の小豆好きだった織田信長の、小豆にまつわる話は多い。お市の方が、夫・浅井長政の裏切りを信長に知らせるために、信長に陣中見舞いにと、 袋に入った小豆が届けられた。

その袋は両端を縄で括って結び切りにしてある。 文は添えられてない 。 口上は 「陣中のお菓子になされますように」 とだけである。 それを受け取った信長は、 しばらく手に取って見ていたが、 ハッと気が付く。 それは、 浅井長政が謀叛して退路が遮断され、 朝倉と共に前後より挟撃しようとしており、 信長の軍は袋の中に入れられた小豆と同じように、 前後を固く真結びに結ばれて、 一粒たりと脱出することが出来ない状況にあることを暗に示したものであると理解した。

小豆餅の話は徳川家康にもある。三方ヶ原で起きた武田信玄と徳川家康・織田信長連合軍の戦の時、上洛しようとしてる武田軍を、迎え撃つべく行われた合戦だが、徳川家康軍は織田軍からの援軍を含めても、約3万の武田軍の軍勢には及ばない状況だった。

最初、浜松城を落とすことが武田軍の目的と考え、籠城の準備を進めていた徳川家康だったが、武田軍はどういうわけか浜松城を素通りし、堀江城を標的とするような進軍をする。

不意をつかれた行動に焦った徳川家康が城を出て追撃すると、それは武田軍のワナで、野戦に持ち込まれ、あっという間に徳川軍が大敗し、徳川家康が命からがら敗走することとなる。

この敗走の途中にお腹が空いてたまらない徳川家康は茶屋で小豆餅を食べていたところ、武田軍の追手を発見し、お金を払うのも忘れてまた逃走する。

それを追いかけるのが店の老婆で、「こらぁ、お侍、小豆餅の代金を払え」。現在でもこの土地には、銭取という地名が残っているとか。

また、土屋検校という語り手は盲人だが、話術を活かして信玄、信長、北条氏政ら複数の戦国大名に仕えていた。戦国武将の中で最も多く御伽衆を召し抱えたのは豊臣秀吉だったと言われている。

御伽衆は、笑い話を聞かせるだけでなく、武芸の話や政談など、豊富な体験や博学、多識と巧みな話術が要求されたため、昔のことをよく知っている年老いた浪人が起用されることが多かった。

細井平洲は江戸で辻話していたところを上杉鷹山に見出され、米沢藩に招かれ、鷹山の参謀になっている。

江戸時代になり、これまでの御伽衆の笑話や講釈が一冊の書物となり、これが講談や落語の源流になったとも言われるし、お土産物の銘菓の名前にも使われている。

写真は、島根県の伝統料理、小豆雑煮。


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