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風のはじまり

 昼メシも食ったし、寝っかなと思っていると、廃品回収のアナウンスが、住宅街のはずれからやってきた。
 おなじみの「ご不要になりましたテレビ、ステレオ、ラジカセ、そのほかなんでも無料にて、無料にて〜」という名調子がいい感じだ。ちょうど我が家を過ぎるあたりでそのうぐいす嬢は、なんとこう言うではないか。

「なお、わからないことがありましたら、なんでもお気軽におたずねください。」

 なんだと。おれは耳を疑った。こいつはただの廃品回収じゃない。世の「わからないこと」を解決してくれる、なんか特別な回収車だ。なんでも回収するばかりでなく、「わからないこと」まで回収するという。
 おれはガバッと起きて、シャツを着た。このところスランプ気味ということもあって、たずねてみたいことがあった。それが具体的にこれというはっきりしたものは自分でもつかみきれていないが、なぜかいま、この回収車に訊いてみたくなったのだ。

 つっかけを履いて路地にでると、白い軽トラックは向こうに小さく見えた。スピードはゆっくりなので、追いつくのはそうむずかしくない。つっかけは少々走りづらいが、なんとか距離を縮めることができた。荷台のなかのテレビがシャープであることなんかが見えるまで近づいたとき、脇の道から小学生らしい男の子が大きな声をあげて、軽トラックの運転席に手を振った。
 それに気づいた軽トラックは止まり、ドアが開くと、小柄なおじさんが現れた。むかし、おれがまだこどもだったころ、よく石焼きイモを売っていた、あのひとの良さそうなおじさんだった。

 走りよってきた少年に、おじさんはにこやかに声をかけた。
「どうしたい、ぼく。いらない自転車や映らなくなったテレビでもあるのかな?」
 息を切らせた少年がおじさんの前に立つと、ちょっと整えてからこういった。
「そうじゃないんです。ぼく、わからないことがあって。」
 おっ、おれと同じだ。「わからないこと」を回収してもらうつもりだな。
「そうかい、そうかい。それはなにかな。」
 おじさんは相変わらずにこやかだ。
「かぜなんです」
「かぜ?かぜって吹いてる風かな?」
「そうです。風はどこから吹いてくるのか、その吹きはじめって、いったいどこなのでしょうか?」
「ははあ、なるほど。風が起こるその出発点が知りたいんだね。」
「はい。」

 おれは関心した。このいい質問のあとでは、なかなか次が言い出しづらい雰囲気だ。
「風の吹きはじめ。それはね、あたかも渋滞の先頭はどこっていう質問と同じだと思うんだよ、おじさんは。きみは本郷にある東京大学って知っているかい?」
「なんとなく知ってます。」
「そこにね『渋滞学』っていう学問があって、西成先生というひとがいるから、きいてみるといいよ。」
「なしなり先生ですか?」
「にしなりだけど、そんなことはどうでもいいんだ。ようはね、そこに行くにはまずね、きみは何年生?」
「五年です。」
「ならね、まず開成学園とか麻布中学とか、筑波大付属とかに行かないといけないんだよ。」
「はあ。」
「でね、開成とか麻布とか筑駒とかに行くには、その前に四谷大塚に行くんだ。」
「あっ、それ友達が行ってます。塾ですよね。」
「そうそう、駅前に大きなビルがあって、そこの四階にあるから、いまから行って、パンフレットをもらってきなさい。」
「はい。」
「入塾テストもあるからね。こんなところで油売ってないで、パンフレットもらったら、いっぱい勉強するんだよ。風はそれから。ずっとあとになってからね。うまくいくといいね。きみがハタチくらいになって、西成先生に会ったら、きいてみて。『風はどこから吹いてくるの?』って。ね、いいかな?」
「わかりました!」
「そうか、よかった。駅前の大きなビルあるでしょ。そこの四階だからね、四谷大塚。じゃね、さよなら。」
「おじさん、ありがとう。」

 少年は駅に向かって、勢いよく走り出した。おじさんはその後ろ姿に手を振ると、軽トラックに乗り込んだ。車はゆっくりと動き出し。あのアナウンスが鳴りだした。

「なお、わからないことがありましたら、なんでもお気軽におたずねください。」

 呆然と立ちつくしたまま、もはやそのあとを追うことができなかった。四谷大塚に行くには、おれはあまりに年をとりすぎていたのだ。

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