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コロナとナイフ

 普段から時事や事件に関心があるほうではないが、なんとなく今年は刃物による殺傷事件が多い気がしていた。例年と比べてどうなのかと調べたりはしていないので、はっきりしたことはわからないまま、漠然と鈍い光を放ったナイフのことを考えるようになっていた。

そんなとき、小田急線内で無差別の殺傷事件が起きた。あのショッキングな事件で、ナイフがより鮮明になった。八月以降も気がつけばあちこちでひとがひとを刺す事件が多発している。
 若い夫婦が女子高生を殺した事件でもナイフは使われていた。同じ頃、京都でも薬局経営の男性が刺殺されている。つい先日も山梨で少年がナイフで友人の両親を刺して放火した事件、愛媛で元同僚とその両親の三人を刺殺した事件があったばかりだ。その詳細がつまびらかにされる間もなく、昨日は上野駅構内でナイフを使った傷害事件があり、その夜には尼崎市で二十八歳の女性が刺殺された。

 これはたまたまなのか。果たしてこの連鎖は、一年半以上にわたって続いたコロナによる社会状況の変化と、まったく関連がないのだろうかと思う。
部屋に籠り、外部との、少なくとも直接のコミュニケーションが途絶え、内側に向かっていくなかで、怨恨や妄想のナイフが黙々と研がれていったとするなら、これはまた社会にとっても大きな不幸である。

 リモートは、ある面でとても効率がいいけれど、ともすると一方的になりがちだ。疎外感も対面より強いだろう。ぼく自身、大学の授業でリモートと対面の両方を経験したが、大きなモニターに向かって話す授業と、実際に学生が目の前にいて行う授業では、その内容、質、そして精神的な面でも、とても同列には語り得ない。
 座学で、どうせ同じことを話すならリモートで十分でしょうと思うかもしれないが、ともに同じ場所にいる、その場の余計なものというのが、ぼくにはとても大切なのだ。
 この学生は熱心でいつも一番前を陣取るんだけど、途中居眠りしちゃうんだよなあとか、うしろのあの子はこの話に飽きているみたいだとか、お、いつになく目がキラキラしているとか、そういった空気を通して伝わってくる表情や感情のやりとりがなによりもおもしろい。

 ライブもまたしかりである。お客さんが目の前にいるかどうかは、もっとも重要なことなのである。この間、配信を含めて何回かライブをやったが、配信ライブのときでさえ、たくさんのかたが直接お店に来てくれた。だからこそ演奏できたと思っている。

 朝夕の電車は、コロナ前とほぼ変わらず混雑している。以前とちがうのは全員がもれなくマスクをしていることだ。でも、それだけだろうか。ぼくにはひとりひとりの孤立性と他者との断絶感がずいぶんと高まったように感じている。
 相互の配慮や関心が薄れたひとで満員になった電車のなかに、鬱屈で研がれた鋭利なナイフを懐に持ったひとがいたとしても、それはなにも不思議なことではないかもしれない。そう感じるこの気持ちが、単なる思い違いであってほしいと願う。


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