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「春江水暖」

 自覚のないままに、知らず知らずのうちに歳をかさねていく。あるとき、いままでできたことが簡単にいかなくなっていることに、ふと気づく。小さい字が読めなくなっていたり、ちょっとした柵を越えるのに足が当たったり、駅の階段をのぼったところで息が少し荒くなっていたりする。
 そんな些細なことのひとつかもしれないが、この一年ほど、身体のなかから言葉がでてこなくなっている。なにかを書こうと思っても、言葉が浮かんでこないのだ。正確に言えば、書こうとする言葉のひとつひとつが霞んでいるという印象だ。うすぼんやりとその皮膜の向こう側にある言葉たちを感じることはできるのだが、どう目を凝らしても、その輪郭が見えてこない。
もちろん歳のせいもあるだろうが、そればかりではないこともわかっている。
 外部との距離や焦点がずれてしまっている。フォーカスが合わないのは、なにも言葉だけではなく、認識そのものがかなり怪しくなっている。これを社会や事象だけに一方的に、その責任を転嫁するつもりはないが、どう歩み寄ったとしても、いま現在、この国で起こっていることは尋常ではない。少なくともぼくの認識はそれを尋常とは捉えることができない。
 そんななかで雄弁であるほうが、よっぽどどうかしている。こんな状況下にありながら、雄弁であろうとするひとは、よほどの強い意思をもっているか、さもなくば、ただの阿呆か美人局である。
 阿呆や美人局などどうでもいい。もし歳のせいにするならば、その無償ともいえる努力、すなわち語ろう、語っていこうとする気力と体力がなくなっているということだろう。
 でもおそらくこれもまた言い訳にすぎない。自分の怠惰を棚にあげて、なにかの免罪符にするつもりはない。ただただ開いた口が塞がらないのだ。口が塞がらないことには発話はかなわない。ほんとうならその口を無理やりでも動かして、語らなければならない。辺見庸さんや山崎哲さんの義憤は、このうえなく尊い。その言葉に触れた瞬間に、眠っていたなにかが覚醒する。

「春江水暖」を観た。Facebookでだれかが褒めていたことを覚えていて、機会があればと思っていた。今日たまたま時間があって、散歩がてらの吉祥寺で「花束みたいな恋をした」でも観るつもりで検索していたら、アップリンクの番組表にかの映画を見つけ、きびすをかえした。
 なんら予備知識も期待もなく、ふらっと降りたその映画館で、これほどの、圧倒的ともいえる衝撃を受けるとは思いもよらなかった。
 劇中のお母さんよろしく、ぼくのなかで進行する認知症が不意に覚醒する。映画を観ながら、霞んでいた言葉たちがこれでもかと溢れ出すのを感じていた。
 こんな大量の冷水を浴びてなお、目を覚まさずにいられはしないだろう。王兵もまたそうだが、「春江水暖」の製作陣の現実と現在を見据える目線がどこまでも透徹として鋭利である。現実とは、国家であり歴史であり郷愁である。すなわちイストワールはどこまでも政治的であり、運動であるということにほかならない。
 演じるとはなにか。「春江水暖」を観た俳優はその問いに、演じる自己をどこまでも苛まれずにはいられないだろう。演じるとは演じないことにほかならない。演じることを課せられながら演じないという自己矛盾を体現することが、演じることの基礎にあると帰着するまでにどれだけの年月と経験が必要なのだろうか。それを引き受けるスタッフもまた傍観者ではいられない。
 なかば認知症のぼくに、そう多くの時間は残されていない。なにに加担し、なにに加担しないかが、次の十年の課題である。少なくともなんらかの言葉がでてこない現場にはいたくないと思う。

 
 
 
 

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