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センチメンタルな旅

(1)

 8時42分発の奥羽本線に乗って山形をでる。いくつかの用事をかかえ、県境を越えて母の郷里である秋田県湯沢市にむかった。
 はるか昔、記憶のなかでは奥羽本線は重厚な列車であった。木の椅子が向かい合うようにならび、冷凍みかんや小さな持ち手のついたパックのお茶が、窓のところに置いてある。オイルの匂いがする、そんな列車を思い出す。
 奥羽本線は相変わらずの単線列車ではあるが、いで立ちは、いまらしいスタイルだ。かつてどこかの都市で走っていた車両なのだろうなどと、もはや列車というよりは電車ということばが相応しいように思う。
 雪の深い地域ゆえに、ドアの開閉は乗客にまかされている。ホームに停車している車両のなかでひとつだけ開いていたドアから乗り込み、どうしたものかと振り返ると、ホームを歩く運転士の手がすっとのびて、パチリと「閉」を押した。気候のちょうどいいいまでも、ドアは閉まっているのが通常なのかもしれない。
 山形を北上して新庄まで1時間ちょっとかかる。さらに秋田行きの電車に乗り継いで、1時間。都市とちがって、すぐに乗り換えられるわけではなく、そのインターバルをいれると、湯沢まで3時間近くかかることになる。これはちょっとした旅だなとあらためて思う。

 ローカル線に乗って車窓を眺めるなんて、いったいいつぶりのことだろう。それでも気持ちが高ぶらないのは、この旅が死にまつわるからなのかもしれない。
 お茶屋の兄さんが去年の末に亡くなった。親戚であってもなくても、お互いを兄さん、姉さん、かあさん、とおさん、ばさま、じさまと呼び合う習慣から、お茶屋の店主はぼくにとっての兄さんだった。いつも元気なひとで、何年かまえに会ったときも一緒に温泉に行ったり、うまいうどんやがあると連れていってくれたりした。
 お線香をあげにと思いながら、6か月が過ぎ、きょうまできてしまった。この春から、毎週のように山形にでかけるようになって、すぐにでもとしながらも、思いのほか時間がかかることもわかり、なかなか日程の調整がつかなかった。

 新庄で秋田行きの奥羽本線に乗り継ぐ。ここまでの道のりと同じように無人駅が多いが、車窓からの景色がぐっと変わる。田畑のひろがる田園から、一気に山のなかへ分け入っていく感じだ。新緑の時期ということもあってか、運転席のうしろからみると、両脇に高く伸びた草木がかぶさるように迫ってきて、中央に抜ける空は長く狭い。ときおり抜けて駅舎があらわれるも、人家はごくごくまばらだ。
 背の高い草木におおわれた道を、電車はまた動き出した。ぼくはなにかいいようのない寂しさを感じていた。「形骸」とか「死骸」ということばがふわっと浮かんだ。自分はいま亡骸となった巨大ないきものの、はらわたのなかを走っているのではないかという錯覚を覚えた。それは迫ってくる野生の樹木たちのすがたが、大きなあばら骨のように見えたからにちがいない。
 野ざらしのまま朽ちていく。葬られることなく亡骸となり、知られずに土にかえろうとするものの寂しさを、波動のように感じた。

(2)

 湯沢に来るときはいつも車なので、こうして駅のホームに降りるのは、ずいぶんと久しぶりのことだ。二十歳の冬に、表町の居酒屋で働いたとき以来となると、かれこれ36年くらい経つ。
 休学してフラフラしていたぼくが行き着いた雪国の居酒屋さんは、カウンターだけの小さなお店だった。毎夜ジャズが鳴り、若いひとたちでいつもいっぱいだった。
「この街は人口よりも飲み屋の数のほうが多いんだ。」
などと、マスターは冗談のようにいっていた。
 お店を閉めた2時から繰り出すと、雪が積もり、吹雪くなかでも通りや店には酔客がいた。

 数年前に駅舎はすっかり新しくなり、きれいな階段をのぼって改札口をでる。二階の窓からロータリーを見下ろすと、すぐまえの観光案内所の「えぐきたな、ゆざわ」の大きな文字に、まったくえぐきたもんだと口元がゆるむ。
 よく整備された駅舎周辺とは裏腹に、そこからまっすぐのびた商店街は、平日の昼まえにもかかわらず、どこもかしこもシャッターが閉まっている。
いわゆるシャッター商店街になってからずいぶん経つが、来るたびに、じわじわとその数が増えているように思う。通りに人の姿もなく、途中、掃除の道具を買おうと金物屋にはいったが、店内は驚くほどごちゃごちゃしていて、なんど大きな声で呼んでもお店のひとはでてこなかった。

 あきらめてそのまま商店街の先にあるお茶屋へはいる。死んだ兄さんとそっくりの息子が奥から出てきて、ほんの一瞬だが戸惑う。
 なにも告げずに突然行ったので、むこうもずいぶん慌てた。二階にあがり、手を合わせていると、姉さんがびっくりした声をあげてやってきた。
 遅くなったことを詫びながら、ふたりで兄さんのことを話す。そのうちに姉さんの目からポロポロと涙が落ちて、まだ受け入れられないのだと小声でうつむいた。

 お茶屋をでて、もうひとつの用事である墓参りにと、すぐちかくのお寺に向かう。祖父母がはいっているお墓には、もう何年も足を運んでいない。いったいどんなことになっているかをまず見にいって、花や線香はそれからでいいと思った。本堂のすぐ裏手にある墓は、もちろん掃除は必要なものの、思ったより荒れてはいなかった。
 ちょうど昼すぎになっておなかもすいてきたので、まずは腹ごしらえをと、古くからのラーメン屋さんを目指して商店街にもどったところで、またあの不思議な感覚がおそってきた。

 街には、そのときどきの時刻を告げる匂いや気配や姿があるものだと、なにとはなしに思っている。朝の光、昼の景色、夕方や夜にも、その時間独特の街の顔と表情がある。そこに集まるひとたちの行き交いや賑わい、笑い声や喧騒で息吹が与えられて、街は生命をもち、ときに躍動し、眠り、成長していく。都市にいるとそんな「生きた街」の時間の流れかたがあたりまえのように思っている。
 しかし、いまぼくが立っている目抜き通りには、そんな街の時間が流れていない。いまが何時であるのか、その時刻を告げる街の表情がない。
 ここに来る電車のなかで感じた、亡骸のはらわたを走るイメージは、この寂しい灰色の風景と時間を予感していたからこその想起であったのだろう。憑きもののようにのしかかる重さから逃げるように、ぼくはラーメン屋さんに飛び込んだ。

(3)

 なぜか墓石の台座の両脇に、ワインの澱みたいな汚れがたまる。たわしでゴシゴシとこすっても、こまかな凹凸がある石の隙間にはいって、なかなか手ごわい。
 水をかけてこすって、雑巾で拭き取ると、赤紫の染みがひろがる。洗った手桶のなかが、薄いお汁粉のようになる。いいところで掃除を諦めて、花を添え、ゆっくりと手を合わせる。生まれた時から祖父母と一緒に暮らしていたこともあり、また商売をやっていたせいで、両親にというより、むしろ祖父母の世話になることが多かった。
 街の小さなふとん屋だったが、いそがしかった。祖父も御用聞きをしたり、ふとんの生地をはいだりして店を手伝った。祖母は職人さんをはじめ、みんなの炊事係だった。

目を開けると、黒く光る墓石にぼくの姿がぼんやりと映っていた。墓のなかからこちらを見ているかのように、ぼわっと浮かんで立っている。まるで死んだ自分と向き合っているみたいだ。
いたずらに口をパクパクと動かしてみる。墓石のなかのぼくがなにかを話しかけてくる。おもしろがって続けていると、あるとき口の動きが少しずれたように感じて、怖くなった。

 墓石のすぐわきに小さな地蔵さんがいる。初男さんという、生れてすぐ死んだ母の弟で、叔父にあたるひとだ。ずっとむかしから初男さんの地蔵さんはこのお寺にあった。積み上がったガラクタのわきにちょこんと、地面に置いてあるだけだった。地蔵さんといっても、ほんとうに粗末なもので、石の顔はどちらが表なのかもわからないくらいの、かろうじてひとのかたちをとどめているような石だ。それでも親である祖父母は、湯沢に来るたびに、それを大切に拝んでいた。そのふたりが死んで墓ができて、初男さんもいっしょに台座にのぼった。
 花をすこし取り分けて、初男さんのまえにも供えた。こどものころからいくどとなく見てきたはずの初男さんだが、きょうほどこの粗末な地蔵さんを身近に思ったことはなかった。

 帰りの電車まで小一時間あった。お寺のすぐよこに「LUSH LIFE」の看板を見つける。居酒屋で働いていたときに通っていたジャズ喫茶だ。いよいよもどれなくなる時間の迷路に入り込みそうで、ちょっと躊躇したが、思い切ってドアをあけた。
 店内は記憶のそのままに、40年近くの時間があたかも流れなかったかのようで、果たして自分がなにものであるのかさえ怪しくなる。
 カウンターに腰掛けて、珈琲をお願いする。マスターはいなかった。おそらくぼくとそう年の離れていない女性が、丁寧に淹れてくれた。

 すぐわきの壁一面に、往年のジャズ喫茶のマッチ箱が貼り付けられていた。なんどか足を運んだ懐かしい名前を見つけては、そういえば昔はこうしてお店のマッチ箱があったなと思ったりした。いまこうして見ると、よくデザインされたものが多い。その店の気概や歴史が薄い箱の表に刷り込まれている。それはさながら小さな博物館のようで、しばらくじっとながめていた。
 その様子を気にしていたのだろう、会計のときの立ち話で店主が切り出した。
「ずいぶんと古いものばかりで‥。」
学生のころによくお邪魔したことを告げると、彼女は小さく微笑んだ。
「それでは‥、お世話になったのですね。」

 死んだひとを想う。生きているのはだれだ。

 小さく礼をして店をあとにした。黒い墓石のなかに自分自身を半分残したまま、ぼくは、時間のある場所に帰ろうとしていた。

(了)


 

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