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「狼をさがして」

 大学も新学期にはいり、これからまた週一回、山形との往復がはじまる。
今期は一年生の必修授業に加えて、あらたに三年生の選択科目も受け持つようになった。準備と打合せをかねて、一日はやく山形に向かうことにした。
 新幹線には乗り馴れているのだが、どうしてもはやく家を出てしまう。発車時間の30分まえには東京駅に着いて、しばらく待合室で過ごす。
 そんなに心配性ではないのだが、ときどき電車が止まるので、そうせざるをえないのだ。きのうも渋谷の映画館にと改札を抜けると、大きなアナウンスが鳴っている。どうやら人身事故があったとのことで、総武線が運行を停止していた。幸い中央線が走っていたので、事なきを得たが、こうした予期せぬ運休も、もはやめずらしいとは思わなくなっている。
 こんなはやい時間に酔ってホームに落ちるわけもなく、事故とはいっても、みずからの意志で飛んだことは、ほぼ間違いないだろう。
 小さなテロだと、そう思う。小さなテロはもはや日常的に起こっている。ホーンが鳴り響き、急ブレーキが踏まれる。その車両に乗り合わせた友人が、なにかに乗り上げたような感じがしたと言っていたことを思い出す。
あーあと思い、音に出さない舌打ちをする乗客もいるかもしれない。窓外の凄惨さとは裏腹に、車内は透き通ったように静かなのだろう。
 テロルとはきわめて政治的な手段にほかならない。一見「人身事故」はテロルには見えない。しかし投げ出された身体、人生、時間を、果たして政治は守ろうとしてくれたのだろうか。そう問いかけるだけの、政治的な異議申し立てもまた少なからず内包していると思う。

 映画は2000年代初頭の釜ヶ崎からはじまる。炊き出しにならぶ日雇い労働者たち。ぞんざいによそわれる粥のような食事。そこで亡くなった友人たちに線香をあげ、「泣きなさい、笑いなさい」と歌をうたう。
釜ヶ崎に暮らす労働者たちを取材していくなかで、監督は、かつての若者たちとその行動に出会う。
「やられたら、やりかえせ!」
そのやりかえしたひとたちにカメラは向かっていく。
 しばしばでてくる荒川にかかる鉄橋はどこまでも幻想的で、実在のものとは思えない美しさだ。「狼」たちは、寝静まった荒川土手に集まり、鉄橋に爆薬を仕掛けていた。そのうえを走る御召列車を破壊するために。
 そのとき「公安に情報が漏れている」とだれかが言ったという。「虹作戦」は急遽中止され、その爆弾は三菱重工の丸の内ビルで使われることになる。
 1974年から翌年にかけて相次いだ、大企業を狙った連続爆破事件のことは、はっきりと覚えている。中学生だった。高度経済成長で浮かれる反面、どこかテロルの空気がうっすらと漂うなか、一連の事件が、そのときのぼくになにかを考えるきっかけとなったことは否めない。
 そしてあのとき以来、いまにいたるまで、東アジア反日武装戦線や連合赤軍が落としていったものを、心のどこかで探している。

 きょう、電車はちゃんと動いているかなと、一泊分の着がえをいれたバッグを背負う。そのなかには大道寺将司の句集がはいっている。
 忘れてしまったことはたくさんある。しかし物事を考えるときに立ち返る指標や尺度を示す「足場」はつねに「いま」である。その「足場」を持たないひとの考えは、腰のない浅薄なものとなろう。かくいうぼくも、たくさんの「足場」を持っているわけではない。だからかように愚鈍で稚拙なのだ。

 いまを生きる若いひとたちにも、「狼をさがして」を観てもらいたい。そして心のなかに小さな「足場」を作ってほしいと思う。
 この映画が韓国映画であるという事実に、愕然とする。なぜぼくたちはすぐに忘れてしまうのか、なぜ自らの手でこの遡行を叶えなかったのかと、激しく自問する。
「足場」を失った現在のこの国の状況と浮遊するひとびとへの、このうえない批判的なテロルだと受けとめた。

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