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劇的なもの

 なぜ劇場に向かうのだろうか。それはひとそれぞれだと思うけれど、ぼくはやはりそこに「劇的なもの」との出会いを、どうしても期待してしまう。
 「水族館劇場」は、ものすごく手垢にまみれている。いわゆるアングラ演劇という屍が放つ腐臭にむせかえるようだといってもいい。花園神社に設営された劇場、かつてのアングラ劇が多用していたイディオムとクリシェが満載の戯曲、素人まがいの役者たち、さえないギャグ。
 どこからかため息がきこえてきそうだ。時代錯誤だの、まだいたのだのと、ヒソヒソ声のぬしたちの哀れんだ眼差しを感じないわけではない。いまさら永山則夫かよ、戦後闇市の話かよというなら、いまさら「三人姉妹」も「関の弥太っぺ」もいけないか。それらは古典として認められているからいいのだろうか。いずれ演目がなんであれ、そこに「劇的なもの」との遭遇があれば、それでいい。

 「水族館劇場」は、自分たちで劇場を組み上げる。テントなんてものじゃなく、もはや立派な建造物だ。テントはわっとたてて、さっといなくなるゲリラ性があったが、水族館劇場のそれは設営に三週間くらいかかる。だからこそ地域や場所とのかかわりが大切になってくる。それほど立派な建物だ。それを劇団員、そしてこの芝居にかかわるひとたちで、デザインして、設計して、つくる。
 まずこの行為自体がぼくにはとてつもなく「劇的なもの」であって、この建物のなかにはいれるというだけで4千円の元はとれたと思っている。
 開演の2時間まえには整理券をもらいにいく。ちょっとまえにいって列に並ぶ。劇場をみあげたり、あたりをキョロキョロしたり、並んでいるひとたちの話を盗みきいたりする。これもまた「劇的なもの」なのである。それを演出するように木戸銭小屋はどこまでもエキゾチックだし、木戸番は素敵だし、整理券はこれまた手製の木片だ。
 それをポッケにいれて、ちかくの飲み屋でビールを飲む。これから観ることになる芝居のことを考えてワクワクしながら飲む。公演中におしっこしたくなったりしないかなとつまらんことも考えながら飲む。

 開演時間に神社にいくと、劇場のそとでプロローグとなる野外芝居が行われている。これはだれでもタダで観ることができる。ひととおり、役者の顔見せも筋立ての準備も終わって、さあお立会い。木札を持っているひとだけなかへどうぞと相成って、のれんをくぐり、靴を脱いで見やすそうな席を物色する。
 演出家兼座長の桃山邑が客入れ係をやっている。つぎつぎにはいってくるお客さんを手際よくさばいて、客席が落ち着いて、いよいよ開演の時間が近づいてきたそのとき、桃山はちいさなトラメガを空にむけてこう告げた。
「みなさん、ご存知のように、われわれのは立派な芝居なんかじゃありません。バッタもんです。だからこそどうか一緒に芝居を作っていってください。」
 もちろんそのつもりできているから、だからこそ胸がときめいている。たくさん声をだして、手拍子して、笑って、泣いて、きれいなもの、うつくしいものに驚嘆し、うつろうものに思いを馳せて、疲れ果てる二時間。終演後は日本酒までご馳走になっていい気分。
 水族館劇場のなかは「劇的なもの」で埋め尽くされている。それがぼくには心地いい。楽日にもう一度行こうと思う。

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