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極北

 1970年代、ぼくが子供だった頃は、まだ戦争の匂いが残っていた。表向きは高度経済成長で、いろんな「豊かさ」が目に見え、手で触れるかたちで、次から次へとあらわれ、そこらじゅうにあふれていた。しかし、ふとある瞬間に生乾きのかさぶたのように、戦争の匂いを嗅ぐことがあった。そうしたとき、幼いながらも、どうしてあの戦争を止めることができなかったのだろうかと、決まってそう思い、考えるのだった。
 なぜひとは理不尽で無謀なこと、残酷で非人道的な行いを受け入れてしまったのか。さらにいえばそれを押し進め翼賛していたったのだろうか。ぼくにはそれが不思議でならなかった。想像力をいっぱい働かせて、自分を戦時下においてみて、それでもNOといえるか、抗いうるかを考えてみたりした。
少年独特の正義感も助けてか、やはりおかしいものはおかしいと言えたはずだという結論になり、そんなことができなかった当時の大人たちを、なかば軽蔑する非難の感情を抱いたりした。
 できるはずのことができないという不思議さだけは、その後もずっと腹の底に残った。もちろんある程度の分別がつく頃になれば、その視点が「戦後」的な価値観、すなわち1945年8月以前の全否定からはじまる価値観のみに捉えられていた、どちらかというと一方向なものだったということはわかった。
 しかしそれらを差し引いたとしても、ではどのようにして戦時下の空気というのは醸されたのかという疑問は充分にほどけずにいた。それがこの十年で、うっすらと合点がいくようになってきた。
 単発的に見える、ひとつひとつの事象や言説が、じつはとんでもないことでありながら、それをどこか認め、許すことで、まわりの空気の位相がゆるやかに変化するのを、肌に感じる。あたまとかではなく、身体でその空気の変化をとらえるとでも言ったらいいのだろうか。
 ああ、こうしてひとは戦時下へと呵責なくすんなりと移行できたのではないかと実感することが増えた。それは独裁と強権によって、強制的に身体と脳を改変させられたのではなく、自らすすんでそこへと向かう空気の生成があったのだと、いまさらながら、この歳になって得心する。
 2011年の大きな震災と津波、そして原発事故以降、自分を取り巻く空気は、どんどんとゆがんでいった。ぼく自身が古くなっていったのかと、ときにいぶかるときもあったが、やはりそれだけでない、なんともいえない「おかしなこと」がいくたびも起こり、そのたびに目をひらきこすっては憤ったりしていたが、いつの間にか、それらに慣らされていたりする。ヨーゼフ・ゲッペルスの有名なことば「嘘も百回いえば真実になる」は、なによりも慣れてしまうことの恐ろしさに関するものにほかならない。
 能力のないものが大きな理想や理念を掲げ、ひとびとを魅了する。しかし客観性や科学性や計画性がないがゆえに、やがてその理想はこどもじみた無謀さにすぎなかったと気づく。ときはおそく、船は沈んでいく。あちこち開いた穴を素手で隠すのが精一杯だ。そして最後は取り返しのつかない破滅が待っている。
 ひとびとが熱狂の渦中にいたまま飢え、焼け死んだ時代とちがうのは、いまはそこにわかりやすい熱狂がないことだ。
 ゆっくりと時間をかけて慣らされてきたことがその理由ではないだろう。理念も理想もないなかで、いかなる熱狂があろうというのか。いけどもすすめどもなにもない、ただ茫洋とした荒野に立って、感情をそがれ、抑揚をうしなったまま、胡乱な目でうつむく。
 ぼくたちが慣らされたのはほかでもない、こうした精神の極北での所作なのではないだろうか。

 

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