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お釣り

 おもいがけず長かったその映画をあとに、ユーロスペースがはいったビルを出たのは20時45分くらいだったと思う。いつものように、東急本店のほうに向かうゆるやかな坂をおりて右に曲がった。いま観たばかりの映画のことをぼんやりと考えながら、ふらふらと歩いていると、ふいに下のほうから 鋭い声がかかった。
「百円でいいからちょうだいよ!」
ぼくはびっくりして、威勢のいい声のほうを見る。
 バス停のベンチに年老いた女性がニコニコして座っている。ぼくは一瞥しただけですぐに前を向き、足早に歩き出した。十歩ほど行って、足が止まった。やおら財布をだして、千円札を取り出すと、踵を返す。
 ぼくは普段こうしたことは絶対にやらない。昨夜もそのつもりだった。でもなぜか、どうしてか千円札を握っていた。目の前の彼女はこちらを見てニコニコとしていた。
「これで何か食べてくださ‥。」
差し出した右手は、そう言い終わるまえに握られ、あっという間に千円札が消えた。
それと同時に彼女はこう言った。
「もう一枚よこしなよ。そしたらお釣りだすからさ。」
と、なにごともなかったように、笑いながら手を出した。
「お釣り?」
そう心の中で反芻していた。お釣りってなんだろう。ぼくはなんだか変な作り笑いをして、なにも言わずにその場を離れた。

 強いおしっこの匂いといままでに感じたことがないような湿った指の感触が、駅のほうに歩いていても、しつこくつきまとってきた。そして一日経ったいまも、ほのかに残っている。
 濃厚接触ってこういうことを言うのかもしれない。ひとの匂いや感触が残り続ける、そんな接触。好きなひとや大切なひとと会ったとき、交わったとき、身体の記憶として残るような接触。それをどれだけやってきたかが、そのひとの豊かさとかかわるのだと思う。
 コロナをいいことに、あれはするなこれはするなと窮屈な暮らしを強いられてきたけれど、それは決して悪いことばかりではなく、みながいっとき立ち止まって考えるいい機会と時間だったと思っている。
 未来について、環境について、暮らしについて、他者について、多様性について、この間、ぼくたちはじつにたくさんのことを考えてきたはずだ。それを経てきてのいまだからこそ、ぼくは立ち止まって財布を出したのだと思う。
「もう一枚よこしなよ。そしたらお釣りだすからさ。」
これは言えない。絶対にぼくだったら言えない。ひとは平気で軽々と、ちっぽけな想像力を乗り越えていく。


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