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『新潮45』2018年10月号特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」に寄稿。当事者の立場から杉田議員を擁護せず認識不足を指摘し、LGBTのおかれている現状を説明。杉田議員との対話を呼びかけた。全文公開!

私は杉田水脈議員への過度なバッシングに疑問を感じています。言葉の断片だけとらえて糾弾してもLGBTへの理解は深まらないと思うからです。2014年に兵庫県議がゲイ差別発言を行ったとき、本人に事実確認をせずに他の地域の当事者議員が兵庫県庁などで抗議活動を行ったことがあります。マスコミがそれをそのまま伝えたため、その県議のもとには全国から非難の声が殺到しました。その後、地元の当事者団体が面会を申し込んでも、県議は心を閉ざしてしまい、一切会ってもらえなかったといいます。そして次の選挙で落選した県議は、今でもLGBTに対して怨念を持っているのだそうです。

確かに杉田議員の文章には、情報不足による誤解が見受けられます。ゲイやレズビアンというセクシュアリティは趣味や嗜好品のように自己決定で選び取ったわけではない。だから努力してもヘテロセクシュアルにはなれません。また性同一性障害者は障害者ではなく、「障害」という建付けにしなければ母体保護法との関係で医師による子宮・卵巣摘出手術ができないため、あえて名称の中に「障害」の文字を入れている。ただLGBTといっても、本来はそれではひとくくりにできないし、概念として揺れ動いているところもある。LGBTについて「正しい知識」があるかと言えば疑問もあります。

また杉田議員はLGBTカップルへの税金投入を問題にしていますが、自治体が実施している同性パートナーシップ証明書にはほとんど予算はかかっていません。指摘するならそこではない。例えば復興庁が旗を振っている「LGBTツーリズム」は、海外から富裕層のLGBTを被災地におもてなしする企画なのですが、その際LGBTが利用可能な温泉やトイレへの改修工事を勧めており、今年6月には東北6県で企業向け説明会が行われました。まだまだ生活再建に苦しんでいる人がいるにもかかわらず、このような復興予算の使われ方はやはりおかしい。それこそ以前ニュースで問題になったような「復興予算の流用」ではないでしょうか。どうしてもLGBTへの対応が必要なら、別の予算枠でやるのが筋だと思います。たとえ政府が示した予算であっても、杉田議員には国会で臆せずチェックしてもらいたいと思います。

「生産性」発言については複雑な思いを抱いています。相模原障害者殺傷事件と同じ優生思想だとの批判はもっともだと思いながらも、しかし私たちは新型出生前診断によりダウン症だと分かった夫婦の96%が中絶を選択する社会を生きています。90年代に井上達夫氏と加藤秀一氏との間で展開された命の線引き論争(プロライフ・プロチョイス論争)は、いまだ決着がついているとは言えません。そしてLGBTも人権の線引きをしてきた過去を持ちます。1994年、国際レズビアン・ゲイ協会は、国連に加盟させてもらうために、これまで共に活動してきたNAMBLA(米国少年愛者団体)を切り捨てます。変えられないセクシュアリティを持つという点においてはゲイも少年愛者も同じです。ところがゲイは、自分たちが1級市民として生き残るために、都合の悪い彼らを排除したのです。児童性虐待を許してはならないのは当然のことですが、実際に犯罪行為に乗り出すチャイルド・マレスターとそうではないペドフィリアとは分けて考えなくてはなりません。かつてゲイは学校や会社で「俺のケツを掘るなよ」といわれ、性犯罪者予備軍として扱われてきました。「あいつはペドフィリアだから性犯罪を行うのではないか?」と差別される悲しみは、誰よりもゲイの人たちが分かっているはずです。命の線引き、人権の線引きは、常に恣意的であり政治的です。

しかし、杉田論文の本当のポイントはそこではないと思います。私が読んで最初に感じたのは「ああ、この方はある層の気持ちを代弁しているのだな」ということでした。グローバル化が急速に進み、大企業が潤う一方で中間層は没落し、町は外国人労働者であふれている日本。少子高齢化の傾向は止まらず、世代間の心理的断絶も大きくなっています。ポリティカル・コレクトネス的に言えば、日本は多様性に開かれるべきであり、理解できない他者と共存していく努力をしなければなりません。私もそのことに異論はありません。ただ、あまりにも変革のスピードが速すぎると、人間の感情はついていけません。地方に住む多くの高齢者はLGBTという新しい概念に戸惑っています。これまで自分が培ってきた価値観を否定されたような居心地の悪さを感じています。ジェンダー研究者は当事者主権こそが大事だというのですが、もう一方の当事者である高齢者へのフォローはまったくない。これまで気持ち悪いとされてきたものが輝かしい存在へと祭り上げられることへの認知的不協和。高齢者の不安に寄り添う漸進的改革が求められているにもかかわらず、意に反して世の中が急進的に変わっていくことへの苛立ちを、私は杉田論文の背後に感じます。

7月27日、自民党本部前には主催者発表で5000人が集まり、杉田発言への抗議デモが行われました。ところが、多くのLGBT当事者から「なぜ、反天皇制や安倍総理退陣のプラカードを掲げるのか?」「差別発言には抗議したいが、保守の自分はこれでは参加できない」との声が上がっていたことは意外にも知られていません。デモを主催した東京レインボープライドは毎年5月に渋谷区でLGBTパレードを実施しているのですが、差別主義者への過激な抗議行動で知られるしばき隊のメンバーが数年前から参加するようになり、今回はデモに慣れている彼らが目立つ形でのアクションとなったようです。暴力的な言葉が飛び交うデモに違和感を覚えた人たちによる議論は、いまもネット上で続けられています。
世間的にはLGBT=リベラルだと思われていますが、それはマスコミが作り上げた虚像です。むしろ多くのLGBTは保守です。政党支持率も、LGBTゆえに社民党を支持するという人が多いとは考えにくく、アンケートを取ればおそらく各新聞社の世論調査と同じように自民党支持者が最多という結果になるのではないでしょうか。電通の調べではLGBTは日本の人口の7.6%だそうですが、計算すると約951万5000人ということになります。そのほとんどはカミングアウトをしていないフツーに働く社会人です。こうした等身大の姿をメディアはなかなか伝えてくれません。そのことによって本来味方になってもらわなければならない一般の保守の方々が身構えてしまっている状況なのです。

杉田発言を受けて、野党は「改めてLGBT差別解消法を成立させなければならない」と意気込んでいます。現在国政では自民党案と野党案の二つのLGBT法案が議論されています。月刊G-men 元編集長の冨田格氏はこの二つの特徴を次のようにまとめています。
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野党4党が提出した「LGBT差別解消法案」は、性的少数者への差別だとみなされる自治体や企業に対して、罰則規定を設けて差別を解消していくことを目指しています。
 自民党の特命委員会で検討している「理解増進法」は、人権教育や人権啓発などを通じて性的少数者への理解を深めていくことで、「知らないが故に生まれてしまう差別的な感情」を減らしていくことを目指しています。
 どちらの法案も、性的少数者の人権を守るために考えられたものですが、その方向性やアプローチの仕方は大きく違います。

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自民党案も野党案もLGBTへの良心から作られたものであることは間違いありません。しかし私は、この野党が掲げるLGBT差別解消法案には見逃すことのできない問題が内包されていると感じています。
野党案では、行政機関および事業者は性的少数者が差別だと感じる社会的障壁を除去しなければならないとされ、社会的障壁の定義として次のように記述しています。
《この法律において「社会的障壁」とは、日常生活又は社会生活を営む上で障壁となるような社会における事物、制度、慣行、観念その他一切のものをいうこと。》
「観念」というのは法律用語であり「認識」の意味だと思いますが、つまり心の中の状態にまで踏み込んでペナルティを課すことが目指されているのです。例えばマンガやアニメ、テレビドラマやCMなどでキャラクターが性別二元制に基づく何気ない性役割を演じているだけであっても、一部のLGBTが「疎外感を覚える」と訴えれば、出版社や放送局は規制の対象となる可能性があるのです。あのサザエさんだって問題になるでしょう。
ヘイトスピーチ解消法は、罰則規定を設けなかったことで多くの憲法学者から妥当だと評価されました。それは、国家による表現の自由への介入を認めれば民主主義そのものが弱体化するとの判断があったからです。しかしLGBT差別解消法案はそれより一歩も二歩も踏み込んでおり、第二の人権擁護法案だと心配されています。野党案には国家主導のポリティカル・コレクトネス社会を作りたいという下心が透けて見えるのですが、私は「表現」についてはあくまでも市民社会での揉み合い、試行錯誤の末の自己決定を尊重すべきだと思います。なぜならそれが立憲主義だからです。
そもそもLGBT当事者間でも、何をもって「日常生活の障壁」とするかは意見が分かれるところです。
先程例に出した性別二元制にしても、これを解体してほしいと考える当事者は少ないのです。ゲイが性愛の対象として求めているのは男性に他ならないわけですし、レズビアンならそれは女性です。トランスジェンダーも、男性/女性として社会の中で暮らしていくためには、むしろ性別二元制がなくなっては困るという人が多いのではないでしょうか。
もちろんXジェンダーのように性別二元制そのものが日常生活を送る上で苦痛だと考える人もいます。性のあり方は一つではなく、この方たちに対しては丁寧に対応していかなくてはなりませんが、本質主義批判一辺倒では何の解決にもなりません。多くの人が欲望している限り、大いなる蓋然性で性別二元制は制度としても文化としても残っていくでしょう。多数の幸せを支えるプラットフォームを壊すのではなく、バッティングしている権利をいかに調整していくかが政治には求められています。

一方、自民党のLGBT理解増進法案は理念法であり罰則規定はありません。自民党が目指すのは「カミングアウトする必要のない社会」です。個々人にカミングアウトのリスクを背負わせるのではなく、社会の側の意識を変えてLGBTの存在が当然のものとして受け入れられるようにしようというわけです。
いま多くの企業がLGBTへの取り組みをはじめていますが、担当者の一番の悩みは当事者社員が名乗り出てくれないことだそうです。確かにまだまだ差別への恐れがあり、名前を明かしにくい状況ではあるのですが、もう一つの理由として下駄を履かせられることへの抵抗感があるようです。仕事で評価してもらいたいのに、周りから「あの人はLGBTということでのプラスアルファがあったのではないか?」と疑いの目で見られることが耐えられないのだそうです。
考えてみれば、セクシュアリティは私たちのアイデンティティを構成する一部分にすぎず、会社員としての自分、家族としての自分、友人といるときの自分、町内会でボランティアをしているときの自分など、いろんな要素で出来上がっています。LGBTはそのすべての場面でカミングアウトをしているわけではありません。一貫したアイデンティティが課されることの功罪へも目配りしながらまとめられた自民党基本方針は、その部分においてクィア・スタディーズ(性的マイノリティを扱う学問)の問題意識と重なるのです。自民党の性的指向・性自認に関する特命委員会アドバイザー繁内幸治氏が「10年先の世界一を目指す」と胸を張る所以です。

私は2013年にアメリカ国務省に招聘され、日本人として初めてのLGBT研修に参加しました。4人のメンバーでおよそ3週間かけて全米各地を回りました。ご承知のように米国は訴訟社会ですので、裁判によって性的マイノリティの権利を獲得してきた部分は大きいのですが、私が注目したのは「保守と革新の対立図式」を克服するための様々なアイデアです。たとえば、LGBT関連における米国最大のNGO「ヒューマンライツ・キャンペーン」は、年間約5000万ドルの予算のほとんどを約200万人のサポーターからの寄付によって集めています。そしてそれをLGBTのサポートをする議員を増やすために使っているのです。所属する政党は共和党でも民主党でもかまいません。連邦レベル、州レベル、市町村レベルを問わず、推薦を出した候補者が真のLGBT支援議員となるよう研修を行い、選挙の際には潤沢な資金提供をし、場合によっては選挙スタッフを派遣します。その結果、80~90%を当選に導いているのだといいます。制度を動かすためには仲間となる議員を増やすしかありません。たとえ保守であろうとためらわずに手を結ぶという強い覚悟があるのです。
また、「家族の再生」をテーマに掲げることで保守/革新の壁を乗り越えようとしていることも、アメリカのいたるところで感じました。オクラホマ州タルサにある宗教大学では、レズビアンの娘を持つ教授が「宗教的信念を曲げることはできないが、子どもの幸福を祈らない親がどこにいるだろうか。娘には幸せになってほしい」と語ってくれました。その横顔からは、様々な思いを乗り越えてきた「父」としての愛情があふれていました。LGBTの子どもを理解するところから再度家族の力を見直そうというのがアメリカなのです。
私たちはブロードウェイでトニー賞を受賞した『キンキ・ブーツ』というミュージカルも鑑賞しました。ドラァグ・クイーンが主役のこの作品で描かれるのは「父と子の再生の物語」です。認知症で息子のことも分からなくなった車椅子の父親にやさしく歌うシーンでは「自分はこんな生き方しかできなかった。でも後悔はしていない。父さんのことはずっと愛している」との思いが観客の涙を誘います。最後は幼馴染と力を合わせ倒産しかけた靴工場を再建。自分たちが本当に守らなければならない「アメリカの価値」とは何かを問いかけます。映画や舞台などの「物語の力」を借りて人々の感情に働きかける戦略もアメリカの知恵の一つです。
いま保守層にLGBTを理解してもらうには何をなすべきか? アメリカが次に私たちに見せたものは「LGBTは強い国家を作る」という実践でした。米国には各地にLGBTセンターがあるのですが、そこには米軍がリクルートをするためブースを出しているのです。2010年、オバマ大統領はゲイの米軍入隊禁止規定の撤廃案に署名。これによって同性愛だと公言して軍隊に入ることが可能になりました。「国家が俺たちのことを認めてくれた。今度は俺たちが国家に貢献する番だ」と、私たちが説明を受けたLGBTセンターのブース前には、当時ゲイの若者が列をなしたそうです。国家が包摂することによりLGBT当事者に愛国心が生まれ、結果として結束力のある強い国を作ることに繋がるという考え方は、わが国の保守の皆さんにも十分に共感していただけるのではないでしょうか。逆にトランプ政権は、トランスジェンダーの米軍入隊を禁止しました。こうした分断国家は国力を損ねる結果になると多くの識者は指摘しています。保革対立の図式では、当事者のためにも国のためにもなりません。保守に届く言葉をどう構築するかが日本でも問われています。

私が暮らす秋田県には、ゲイバーは1件もありません。なぜかというと「顔バレ」を恐れて当事者が集まらず、経営が成り立たないからです。NPO団体が主催する月に1度の会合も参加希望者にのみ場所は教えられ、世間からは見えない仕組みになっています。秋田市では毎年8月に東北三大祭りの一つ「竿燈まつり」が行われますが、その会場となる道路の地下道で2012年11月、トランスジェンダー男性がガソリンをかぶって焼身自殺しました。私自身も「あなたは同性愛者だから秋田県の代表にふさわしくない。候補者を降りるべきだ」という趣旨の発言を議員からされたことがあります。このような地方の状況を変えたくて私はカミングアウトをしました。しかしそれは「LGBT特権」が欲しいからではありません。私たちが望むのは「フェアな社会」です。長年連れ添った相方の遺産相続や事業承継の問題、雇用の問題、そして結婚における平等など、個別具体な法整備を希望しているのです。
「社会制度を変えても生きづらさが解消されるわけではない」という杉田議員の言葉は圧倒的に正しい。私は生まれてから48年間、一度も人と付き合ったことがありません。将来同性婚制度が施行されたとしても、それによって私に恋人が出来るわけではありません。それでも制度を望むのは「LGBTであっても国民の一員」という国からの承認が、当事者にとって日本人としての矜恃となることを信じているからです。それが次世代へのせめてもの贈与だと思うからです。
私は秋田が大好きです。だからこそ秋田を、そして日本を変えたいのです。私は杉田議員と胸襟を開いて議論したい。そして杉田議員にはLGBTの味方になってもらいたい。ぜひ本音の対談が実現するよう願っています。

(一部加筆)

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