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讒文芝居

■「理由あり反鬱」

小学校三年生の頃から母は重度の鬱病だっ度が、
其れを不幸に思う前に三十路位に「鬱のナニがいけないの乎」を想い起ち、助言した処、微微足る良好の兆しがあった。

でも、此れ、暗黒の感受性に囚われて選択肢が死の概念し乎無い人が
「当たり前」の選択肢をツブ然れて居る丈だので在る。
なので「何でも無い人への自戒・助言にも有効」
だと超個人的には想うのだ。

①「過去はもう死んで居る。死んで居るものは絶対に生き返らない」
タイム・マシーンは絶対に科学が幾ら進んでも、発明される事は無い。
一秒前も昨日も十年前も、江戸時代も紀元前も
「絶対に過去は変わらない。変えられるのは一秒後か、
明日、数時間や数年後である」

②「起こった事は凡て正しい」
宗教家も霊能力者占い師も科学者も実は
「過去を調べ知って居て
其れを元手に予想は出来ても、未来は絶対に誰にも解らない」
では、ナニを指針とするかって、現状が凡ての答えとヒントで在る。
今が不満なら行動が足りぬ。
万が一にも「ひょんな事から何もせずには、何も変わらない」

③「悩んでも絶対にイイ結果は導き出せない」
悩むと考えるは違う。悩むって謂うのが、一番いけない「鬱依存」で在る。
後ろ向きの面白さに溺れ、後ろ向きの札を集めて
カード・ゲームやってもイイカードを一生選べない。
前向きのガードを一枚ずつ苦しくても、バカバカしくても、
自力で雑ぜる事でしか「前向き」は発芽しない。

④「百手先を読むより一歩踏み出す」
鬱が重度になると、後ろ向き仮想練習のし過ぎで
電波さん迄はいかぬが、存在しない「見えない敵」のディスりや攻撃、
失敗の恐れに四六時中苛まれ、ナニもせぬ前から精神力零迄疲弊する。
「考える前に跳べ」大袈裟に云い過ぎだが、一歩進めばもう景色が違う。

⑤「恰好をつけない」
人に嫌われる勇気も幸福になる勇気も、名言も「自分を尊重してこそ」
自分が確乎たるなら、嫌われても幸福の揺り返しも怖くない。
名言を鵜呑み、又は借りものの言葉で使用してもダメ。
言語自体が先人の借り物だのだ。だが、月並みの言葉でも常套句でも
「自力で当たり前に辿り着けば自分の物」

⑥「自傷こそが元凶」
「すみません」を口癖にするのは、本当に謝っているのではなく
其の言葉に酔う事で安心するから。
じゃあ、如何するのかって小学生でも知って居る
「ありがとう」と置き換える。
鬱依存も自傷行為と同じく「頽廃に酔う自分がキモチイイ」
ので、先ずはその真逆に踏み出す勇気と「照れ」を止める事。

⑦「自分を誤魔化さない その①」
失敗を「そのつもりじゃなかった、もっとマシだったハズ」
とか云うのが一番いけない。粉飾決済と同じだからだ。
嘘を吐いた、誤魔化した分、
心の負債は、現実には絶対的に積みあがり蝕んでいく。
だからこそ、一つずつ一日ずつ返済していく。歯磨きの様に。
失敗したら受け入れる。反省はしなくてイイ。
その分、なけなしの自分を必ず夜睡る前と起きた直後に
「詰まらん事で、おもいっきり褒める」
新興宗教自己啓発めいているが、これが効く。

⑧「自分を誤魔化さない その②」
何故、自分褒めが効くのか?調子がイイ人のよすがだって
「成功体験」しかないし、それが間違っている人が犯罪に走るって位に
実は理屈は簡単だし、まやかしに過ぎない。
が、そのまやかしで、人間は前向きにも後ろ向きにもなるしなれる。
だが、急にでは、無い。毎日の積み重ね。

⑨「極端はダメ」
考え方が、0か1かの人は絶対ムリが来る。僕等は機械じゃないのに
完璧主義は身を滅ぼす。逆も然り、小数点やグラデーション、
結果より過程。完璧より進歩進化である。
継続する事でしか、持久力はつかない。
瞬発力は実はある程度はまぐれで出せる。

⑩「簡単な物の大半は嘘」
簡単(楽)にするのは結構大変で、現代人は殆どの人が頼り切り。
却って不安の元凶になる。だから、付け目であり言説も仮説も
「妙に甲斐甲斐しい」場合は「面倒な経過を噛み砕いてくれる時点」で
「どさくさ紛れに、嘘を吐かれてても気が付かない」のだ。
簡略化し過ぎて居る調べ物や、
類型的過ぎる物語、キャッシュレス決済果ては、自分の志向主義だって
「簡単(楽)すぎる場合は、原典にあたれ」

⑪「人生は自分が歩かないと誰も代わりに歩いてはくれない」
オシッコの原理と云っていますが、代わりを御願いする事により
ゲームでいう「経験値」を損している。
努力はしなくてイイが、面倒を避けて誰かの情報体験談噂だけを
よすがにするのは「オシッコを他者には排泄してもらえない」のと同じ。
実質が伴わない。

⑫「自分を殺す者は他者も殺す」
自殺したい事はあっても、他殺はしたくない私は大丈夫。
な貴方大丈夫、滅茶苦茶ダメ。
自分を褒める事や勇気づけ、自分の為の力が発揮出来なくて、
他者を大切にしてあげられる筈なし。
人間は合わせ鏡だし、余裕がないと誰かの為の実力も出せない。
リラックスには、皆の力が必要。孤立強制の「気合」ダメ絶対!

⑬「私だけは、私だけが、が危険」
鬱病に限った事ではなく、それは「暴走した執着」という事だ。
病的な愛とも云い換えられる。
皆誰でも、事情があり不幸だし幸福なのに、それが解らなくなる。
誰か「だけ」は不幸になって欲しくない場合は、其の他の者は如何でもよく
なぜ、誰か「だけ」不幸なのかと嘆く場合は、他の人はどんどん不幸になれ
という意味に派生してしまう。
重度になれば、急激に他者への敬意は失われ、
対話も出来なくなる原因。戦争の火種はだいたいこれである。
同じく、仏教でも本当は愛はいけないとされる。
我等凡俗に愛を止めろ、という訳では無いが、程度による。
殊、鬱病の場合は「執着が増幅している」から
これを云い出したら危険なので
そういう一時的に偏り肥大した自己愛を指摘、鎮静化するのも必要。

⑭「或る程度は口車に乗る」
凡てを否定して疑っても、哲学者じゃないから損はしなくても得もしない。
新しもの好きも行き過ぎては危ないが、世の動向流行を頭から
全部無視しては、今度は世の中から拒絶されて仕舞う。
イイモノに触れる機会を遁す。
本当も嘘も、実は「云ってる事はほぼ一緒」の場合が多いのだ。
だから、騙される。だから、面倒でも愚直に「比較検討」が大事である。
記憶も幽霊も認識も予感も、大概が「比較検討」である。
元ネタがなければ、悪い予感も幽霊も出て来ようも、感じ様も無いが
「枯れ尾花」にするには「『或る程度は』虎穴に入らずんば虎子を得ず」

⑮「幸も不幸も入り口は一緒」
死ねばいい。死ねば楽になる。その考え方を否定はせぬが、
幸福を感じる一方で、苦痛なのは仕様が無い。
流れて来る源流は一緒だから。
数値が発生したら、間違いや誤差が一切無い事が、現実には皆無の様に
自分が在る時点で「両方セットでついて来る」単品販売はしてないのだ。
「幸福百の苦痛零」は、もう其れは「死」で在るし、あり得ない。
其れじゃあ、皆んな死んじゃうから「地獄の方が苦痛」とされて居るのだ。
じゃあ、死んじゃえって、其の極端は人間ではない。
機械のデジタルやスイッチだ。(0【OFF】か1【ON】しか頭にない)
生の楽しみも苦しみも「貴方が存在するから(1)」
死んだら、楽しいも苦しいも無い。「無(0)」で在る。
0か1か、極端は止めた方がいい理由はここにある。「あいだ」が無いのだ。
そういう場合には、一旦落ち着いた時を見計らって
(極端という状態に酔っ払っているので)
0.1や0.05の意味をゆっくり鑑みる事だ。
何故、ハンドルに遊びがあるのかを。


※超個人的自戒です。参考程度になさる事をお勧めします。


■追記 参考:音楽で繙く精神の考察

https://note.com/dai6tenmaoo/n/ncbd434324a3c


■倉橋ヨエコ「今日も雨」

■Buzy 「鯨」

■BiSH「My landscape」

■ORESAMA「Dreamin' Pops」