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僕がスタジオを作った理由④

Coney Island Jellyfish〜ビクタースタジオ

というわけで19歳でConey Island Jellyfishというバンドを始めます

ホコ天でも数百人のお客さんを集めて居た僕たちだったのですが
それまでオーディションだったりコンテスト的なものに出た事は無かった
のですが、何故か神奈川のとある街のバンドコンテストに出る事になりまして
そこで当時ビクターのディレクターだった野崎Pが


特別審査員として参加されていました。
そのコンテストで野崎Pから審査員特別賞を頂きまして
ビクタースタジオでデモテープの録音をさせてもらえる事になります。

レコーディング前に野崎Pから
僕の打ち込み音源をブラッシュアップしてくれる
マニピュレーターさんと一緒に作業したらどうかと提案して頂きまして
後に師匠となるUNAさんこと、棚橋さんと出会う事になります。

棚橋さんのプライベートスタジオにはアナログシンセや機材が
山ほどあって大きなコンソールもあり
僕のM1のデータをMacに移し、音色の差し替え作業をして頂き
アレンジをブラッシュアップしてもらいました。

後にデビューアルバムなども棚橋さんと一緒に作業をする事になるのですが
そんなお話はもうちょっと先に詳しく書く事にします。
(棚橋さんとの出会いが自分でスタジオを持つ事に大きく影響します)

レコーディングはビクタースタジオの401 STUDIOという一番大きい部屋で
通称サザン部屋(サザンオールスターズがレコーディングしてる場所で有名)
でして、スタジオとして最高峰の場所でした。
この場所がプロスタジオでの初レコーディング、しかもデモテープ(笑)
とても良い時代でしたね。ありがたや〜
まだ10代だったし、なんか凄すぎてこの辺りの記憶は曖昧なのですが(笑)
一番大きなブースの真ん中でひとりでギター弾いてめっちゃ緊張しました。

そんな恵まれた環境を頂きつつ、
元々、別々のバンドで集まったバンドだったので
それぞれの楽曲を持ち寄って
オリジナル曲は8曲くらい?だったかな?
で始まったバンドは活動8ヶ月くらいで急にメジャーデビューが決まります。

ビクターでデモテープを録ってもらったにも関わらず
結局ソニーと契約する事になるわけですが。。
(野崎P 本当にすみませんでした。。)

8曲しかなかったけど30曲くらいあります!とレコード会社に言ってしまったため
急いで楽曲を作った記憶がありますね。

華々しく憧れのメジャーデビュー!!

そんなこんなであれよあれよと話は進み、右も左もわからず
厳しい音楽業界の荒波へ足を踏み入れる事となります。

当時ソニー・ミュージックで
EPICソニーを設立した丸山茂雄さん(通称丸さん)が新しく立ち上げたレーベル
アンティノス・レコードからメジャーデビューします。
いつもGパン姿でフラットに接してくれたかっこいい人です。

アンティノス・レコードは契約システムや概念も
今までのレコード会社のシステムを変えていく というコンセプトの会社でした。
まさに今の時代にフィットしている感じがするので時期が早過ぎたというか
「レコード会社の中でレコード会社を変えていく」
という試みがとても丸山さんらしかったですね。
ちなみにアンティノス(Antinos)の名前の由来は
(アンチ・ソニー)だったとか(笑)

基本的には独立採算制で
レーベルから活動費がアーティストに割り当てられます。
そこからライブなどの活動費、レコーディング費用を自分たちで決めるわけです
系列のアンティノス・マネージメントという事務所に所属したのですが
この事務所ではアーティストごと1部屋与えてもらい、マネージャーも
自分たちで直接決め、直接契約する。
マネージャー候補の紹介はしてもらえました(笑)
(普通マネージャーは事務所に所属、契約している人が多く
会社の方で割り当てられます)

レコーディング費用もリクープポイントが設けられていて
少なく抑えればアーティスト印税のパーセンテージが上がったり
アーティストにとってもメリットがあるので、闇雲に予算を使わせない
うまく考えられたシステムだったと思います。

その辺りのお金の話も自分たちで決めるため、普通は話さないような事
まぁ逆にいうと聞きたいくないお金の事も聞く事になるわけですが
今思うととても勉強になった時期でした。
(定期的に経理担当の方を囲んで勉強会みたいのもありました)

海外のレーベルのシステムを日本に取り入れた形で
インディペンデント・レーベルのシステムに近い感じだったのかな?

なんとなく思ってた感じと違かったメジャーデビューでしたが
全国ドラマの主題歌に使ってもらったり、色々なイベントにも出させてもらったり
しましたが、まぁ、あまり売れなかったですね(笑)

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それまでホコ天やライブ活動も多く、メジャーデビューすると
ライブも少なくなってファンとの距離感も遠くなり、
お客さんも自然に離れていっていたのだと思います。

アルバムの費用も気づけばかなり予算オーバーしていて
7曲のミニアルバムで制作費も1000万を超えてました(ヒェェ〜)
今考えると寒気がします(笑)

ドラムエディットに当時 信濃町にあったソニースタジオ2部屋借りて
PCM3348(48chレコーダー)を2台繋げて何時間もやってましたしね。。
今ではあっという間に出来る作業も
当時はとにかく時間もお金もかかった時代ではありました。

楽曲プレゼンの日々

そんなこんなをしているうちに会社の体系も代わり
社長が坂西伊作さんになり、伊作さんへの楽曲プレゼンの日々が続きます。
(伊作さんはTM NETWORKや数々のMV監督としても有名だった方です。)

あぁでもない、こうでもないとみんなで事務所で毎日デモテープ制作の毎日
1年くらいは作ってたかな?(笑)

曲が悪いのか?アレンジが悪いのか?とか色々とやりましたが
結局二枚目のアルバムも作れず、シングル一枚とアルバム一枚で契約も終了

「今思えば、即席バンドだったし何がしたいかもはっきりしていなかったり
そういう所を見抜かれていたんでしょうね。」
音楽業界は甘くないな〜と。

と言う事で突然無職になってしまいました。

明日からどうしようかな〜とか、バイトしなきゃな〜とか
メンタル的に一番沈んだ時期でしたね。

結局バンドも解散。

21歳 しばらく路頭に迷う日が続くのでありました。


今回はこの辺で。



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