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日本史に見る事業承継

最近、起業家・経営者の方とお話していると必ずと言っていいほど

事業承継

の話が出てきます。


現役で企業の舵取りをしてきた代表者の多くが代替わりの時期を迎え、うち127万件の後継者未定の事業所があるという、これまで経験したことのないような状況。


社会的には危機でもありますが

それに関わる業種や、会社を買いたいと考える人達にとっては、大きなチャンスでもあります。


ただ事業承継って、ほんとに難しいという話をよく聞きます。

財務面で問題なくても、感情面その他でもめたり。

一筋縄ではいかないものです。


事業承継の専門的なお話は専門家の方がよくされているので譲るとして。

もと歴史の教師として、歴史的な視点で事業承継を考えてみたときに

「大なり小なり、事業承継は難しい」

という感想を抱きました。


日本史における事業承継の成功例・失敗例を挙げて、事業承継の難しさを考えてみたいと思います。


日本史に見る事業承継

{目次}

 ◆江戸幕府260年の礎 〜 家康から秀忠へ 

 ◆日本国王 源道義


江戸幕府260年の礎 〜 家康から秀忠へ

日本史における事業承継の成功例の一つといえば、徳川家康。

皇室の継続性は特筆に値しますが、事業承継の妙で言えばこっちかなあ。

なにしろ、それまで争いばかりあった日本国から争いを一掃し、260年続く平和な時期を続かせたわけですから。

しかも決して暗い時代だったわけではなく、独自の文化文明が発展し、教育も行き届き、経済的にも同時代の世界に比べると決して貧困だったわけではない。

近世において世界でも稀に見る時代かなと。


その江戸幕府を開いたのは家康なわけですが、これ自体は信長・秀吉の遺産をうまく使ったと言えます。

信長が宗教勢力を弱めてくれていたので(一向一揆との戦いなど)、宗教勢力との争いは圧勝だったし

秀吉が身分制度に先鞭をつけ(刀狩り)、かつ朝鮮出兵の失敗で対外進出への圧力を受けることもなくなりました。

その位鉢をうまく継ぐことができたのは、家康の幸運だったと思います。

もちろん、戦乱の世を生き抜き、関ヶ原の戦いを制し、天下一統を果たしたことはすごいことなんですけどね^^


それよりも家康の本領は、その後長く、かつ強固に続く江戸幕府体制を築いたことだと思います。


なぜ家康が、承継・永続に心を砕いたか。

それもまた、信長・秀吉をよく観察したからではないかと。

信長の嫡男・秀忠は、偉大な父とともに殺されてしまいます。残された遺児たちは、後継者としての教育を受けておらず、秀吉その他にいいように操られ、織田政権は実質、信長の死とともに瓦解しました。

豊臣政権は後継者を早くから定め(秀次)政権の継続を図りましたが、実子の誕生による後継者を巡るゴタゴタや、政権内部の不和などから、スムーズな政権移譲に失敗。短命に終わります。

それらの姿を観ていた家康がおこなったのが


・光秀のような裏切り者を決して出さない思想教育

・後継者争いで政権の不和をもたらさないためのルール作り

・血統が絶えないようにするための基盤整備

・権力集中のための支配体制づくり

・支配の正当性を作るためのストーリー作り

などでした。


これを周到に、かつ徹底的に行なったからこそ

家康が作ったルールに基づき、徳川の世が260年もの長きにわたって続いたわけです。

家康の制度設計がそれだけ偉大だったと言えると思います。

世界史上で同じような存在といえば、カエサルの跡を継いだオクタヴィアヌス(アウグストゥス)が思い当たりますね。


この両者が心を砕いたのが

誰を後継者にするか

より

誰がなっても遺漏なく運営できるシステムづくり

でした。

もちろん、後継者選びにも意を用いてますが、もしかしたらその後継者が短命に終わるかもしれないし、メガネ違いかもしれない。

それよりも、誰がなろうと政権がまわるシステムづくりの方に重きをおいたように思います。


では具体的に、家康がスムーズな事業承継・政権の継続のためにどんなことをやったのか。

代表的なものを挙げてみます。


①光秀のような裏切り者を決して出さない思想教育

戦国時代最大のミステリー、本能寺の変。

なぜ光秀が裏切ったのか

黒幕が誰か

など、諸説ありますが、そればまた別の話。

この事件で、家康は一つの強烈な教訓を得ます。

それは

「信頼だけでは、裏切りは防げない」

ということ。


光秀は本能寺の変当時、信長が最も信頼する家臣でした。

識見・能力・人格

どれをとっても、光秀に比肩するものは織田家中にはなく、秀吉ですら光秀には一歩譲ったでしょう。

企業でいうと、創業社長(正確に言うと会長)の懐刀にして、代理権を持った副社長とも言える存在。

 

こともあろうにその光秀が、信長を討ちます。

※家康の共謀説もありますが、それは置きます。

家康としては、自分あるいは子孫にも同じことが起こることは、なんとしても避けたいと考えたはず。

そこで家康が行ったのが、朱子学の導入。

中国・南宋の朱子学者である朱氏(朱熹)がそれまでの儒学をマイナーチェンジしたこの朱子学は、後醍醐天皇の思想的バックボーンにもなりました。


その特徴を一言で言えば

「分をわきまえる」

ということ。

定められた秩序に沿って、その中で正しく生きることこそ正しい。

それをひっくり返す下剋上なんてとんでもない。

これが、朱子学の一つの主張です。

裏切りを防ぎたい為政者にとっては、これほど都合のいい思想はありません。

家康はこれを武士の官学とし、奨励しました。

現在の東大にあたる昌平坂学問所では当然教えられましたし、各藩でも師弟教育に用いられました。


結果、武士は「君、君足らずとも、臣、臣たれ」の精神を叩き込まれ

上(主君や家)に絶対の忠誠を誓う存在になっていきます。

幕末、日本は幕府側と薩長側に割れましたが、不思議なくらい内部の裏切りは出ませんでした。世界史上、こんな例は日本ぐらいです。

それだけ、朱子学の教えが特に武士には浸透していたと言えます。

家康はまず思想・精神的に、日本全体を作り変えていく手を打ちました。


②後継者争いで政権の不和をもたらさないためのルール作り

これも、朱子学の導入によって、トラブルを未然に防げるように手配しました。


家康は、豊臣政権が後継者争いで弱体化したのを目の当たりにしています。

秀吉が、甥の秀次を後継者に定めておきながら、晩年に実子(秀頼)が生まれたことで秀次を排斥し秀頼を後継者に。

しかしその秀頼への政権移譲ができていないうちに本人は死去し、政権基盤が揺らいでいる隙をつかれて滅んだ(滅ぼしたのは家康ですが)のを、間近で見たわけです。


後継者は早くに決めておかねばならない

そして、決め方も一定のルールに沿って、恣意的な意図が入ってはならない

こう痛感したと思います。


朱子学は、長幼の序を重んじました。

次男が以下に優れていようと、原則は長男が後を継ぐ。

それが朱子学的正義です。

このルールが決まっている以上、後継者争いは基本的には起き得ません。最初から決まってるわけですから。

秀忠・お江夫妻が家光より国松(後の忠長)をかわいがっても、家康が家光を後継者とするよう力を加えたのも、それが背景にありました。

朱子学の思想を利用して徳川政権を永続させようとしたことが、よくわかります。


③血統が絶えないようにするための基盤整備

家康は御三家を創設しました(紀州・尾張・水戸)。


家康は、古今の歴史書をよく読んだ勉強家だったことで知られていますが

どんなに権力を持ち、強大な政権を築いても、あっけなく滅びる。

そんな例をたくさん知っていました。

信長が討たれ、豊臣政権も2代目であっけなく滅びました。

また、『吾妻鏡』で、源頼朝の系統が3代で絶え、鎌倉幕府の実質的な支配者が北条家になったこともよく知っていました。


せっかく築いた政権を永続させるために、血統の保存のために、家康が採ったのがこの御三家の創設です。

のちにこの政策が裏目に出るのですが、それは家康の死後250年ほど後の話。

スムーズな承継をつづけるためにこのときに採れた策としては、考え抜かれたものだったと思います。


④権力集中のための支配体制づくり

家康は、天下を統一しました。

しかしそれは、明治以降のような一極集中の中央集権ではなく、地方政権(藩)が大きな裁量権を持った地方分権でした。

関ヶ原の戦い・大阪の陣を制したとはいえ、まだ地方には仮想敵国(島津・長州など)が残っていました。それらの敵国が力をつけたら、徳川政権を脅かす可能性がある。

それらの力を削ぎ権力を幕府に集中させ、後顧の憂いを絶つために、国替えや取り潰しなど、ありとあらゆる手を尽くしました。

やりすぎて、4代家綱のときに由比正雪の乱により、国家転覆が図れることになりますが・・・

結果、完全ではないにせよ幕府に大きな権力が集中し、政権基盤は盤石になっていきました。


⑤支配の正当性を作るためのストーリー作り

信長・秀吉・家康が共通しておこなおうとしたのが、自らの神格化でした。

日本には、天皇がいます。

天皇は、「あめのすめらみこと」つまりは神様の系譜なので、人間のままだと権威的に太刀打ちできません。

 

皇室を打倒することは、結局だれも成功していませんが、それと同等か凌ぐ権威をつけることはできる。

それが「自らの神格化」でした。

信長は、安土城に自らを神と比定する建築物を構築し

秀吉は、自らを豊国大明神として祀る豊国神社について遺言しました(結局それが、豊臣家滅亡の引き金になります)。

そして家康は、自らを「東照大権現=東を照らす神の化身」として祀るよう手配して亡くなりました(日光東照宮)。

家康は神。イコールその子孫は神の子。

天皇家と同じ文脈で、徳川支配の正当性を担保し、政権の永続を図ったわけです。


このほかにも、だれが将軍だろうがその下にいる老中による合議で政権運営ができるシステ者構築や、皇室・公家を抑える施策など、政権永続ひいては承継がスムーズに進むための手をいくつも打っています。

この家康の周到な手配があったからこそ、徳川家(幕府)は260年の長きにわたって続きました。

まさに、日本史上屈指の事業承継の成功例と言って良いかと思います。


次に、事業承継の失敗例を。


日本国王 源道義

室町幕府の3代目将軍にして、南北朝を統一した(とされる)のが、足利義満です。

鹿苑寺金閣を建設したことでも知られていますが、あれも対外的に権威を増すためという色合いが濃く、その権威を持って中国・明の皇帝から

『日本国王 源道義』

と、日本の支配者と認知されました。

彼は武士として初めて、貴族の頂点である太政大臣と、武家の棟梁である征夷大将軍も兼ねました。

次は天皇に成り代わって・・・、と思い描いていただろうと推測できます。


しかし、志半ばにして急死。

その意志を、4代将軍で息子の義持が継ぎ・・・ませんでした。

義持は、朝廷が父・義満に「太上法皇 ※」の称号を授けようとしたのも辞退し、義満時代に採った政策をひっくり返していきます。

※通常であれば、出家した上皇に送られるもの。以前天皇だったものに与えられる称号

義持が義満の意図を正しく理解し、またそのように義満が承継の準備し教育していたら、もしかしたら天皇家は消滅し、武士が名実ともに日本の支配者となったかもしれません。

しかし義持は、父・義満と不仲であったとされます。

そして、父の志を理解しようともしませんでした。

義満は天才なので、天才の意図を凡人が推し量るのは、極めて難しい。

※政治家としては優秀で、義持の知性は比較的平穏な時期が続きました。

おそらく義満は、そのことがわかっていたために、自分の代でことをなそうとしたのだと思います。あくまで推測ですが。


しかし、ことはならず、承継はスムーズにいかず

皇室が権威を

将軍が権力を

それぞれ保持する、世界でも特殊な体制が江戸幕府の末まで続くことになりました。

尊氏〜義満までに築いた基盤が強大だったために、室町幕府がすぐに滅びるということはありませんでした。

しかし、明らかに義満以後は威勢が衰え、応仁の乱から始まる戦国時代を招来することになります。

事業承継の失敗が、250年続く戦国の世を招いた、と言えるかもしれません。



こうしてみると、スムーズな承継ってほんとに大事ですね。

そして、とてつもなく難しい。

何年も前から周到に準備し、何年もかけて成し遂げる。

引き継がせる側には、その姿勢は少なくとも欠かせないなあと思いますが・・・、どうでしょうか。


それでは今日はここまで。

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だいちゅう

先生業からなるグループ『クラウド・パートナー』主宰。阪大卒の元歴史教師。200社以上のサポート実績。歴史✕ビジネス・生き方をテーマにした動画はこちら。 https://www.youtube.com/channel/UCA0LUod0Cx09fCdUvj8cE0g

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