人文学の現状と今後の可能性について

日本の科学はどうなるのか?

若手研究者にとっては当たり前のことであり、いまさら取り上げるまでもないことであるが、業界以外の人は以下の事情について全く知らないし、ほとんど無関心と言ってよいだろう。

インタビューを受けている40代若手研究者の言葉を引用する。曰く、

「周りを見ていると、40歳代くらいまでは先が見えない不安定なポストで研究を続けるのも普通だ。勤務先の仕事以外にも多方面の仕事をしなければならず、突然死する人もいる。過酷な業界だが、日本の科学のため頑張りたい」

毎年ノーベル賞を輩出するなど、日本の科学力は世界に誇るものがある。しかし輝かしい日本の科学の未来は、こうした不安定な立場の若手研究者の肩にかかっているのである。しかも、優秀な学生は研究室を去って民間企業へ就職するのが普通になりつつある中で、である。任期付きという不安定な身分で、自身の将来も見えない中、後輩は次々に民間へ出て安定した生活を送るのを横目に、信念だけで研究へのモチベーションを維持しているのである。

日本の科学の将来は、こうした若手研究者の信念にかかっていると言ってよい。しかも、こう言っては誤解を招く書き方かもしれないが、最も優秀ではない学生が研究者の卵になる時代である。能力的にベストではない人材が、己の信念だけで日本の科学を支えているのである。もし途中で信念を支えきれなくなり、「逃げ」てしまったとしても、私はその人を責めることはできない。

いずれにしても、日本の科学の未来はそのように非常に脆く危うい土台の上に積み重ねられて行っているのは間違いないだろう。

日本の人文学はどうなるのか?

上の話は主に理系に関するものである。これに対して文系はどうであろうか。特に「社会貢献をしていない」と批判されることの多い人文学の将来について考えてみたい。

人文学の中には、各種文学、各種語学、言語学、哲学、宗教学、美学、などが含まれる。最近は哲学がブームなので、多少哲学に対する風当たりは和らいでいる印象だが、それらは臨床哲学や応用哲学が主なもので、カントやヘーゲルなどの著作を精読して一文字ごとに意味を追う、という従来の哲学は射程圏外だろう。

これらの現状として、第一にこの学問領域を学ぶ学生が少なくなってしまった。就職に有利ではない領域は敬遠される傾向にある中で、社会貢献をしないとみなされている学科専修に進学する学生は少ない。少なくとも、もともと興味がある人以外に志望する人は絶対にいない。他学部には例えば「法学部に入って公務員試験を受ける」「経済学部に入って経済の知識をつける」などの就職面を意識した志望動機が考えられるが、つまり自分の趣味以外の動機がありうるのだが、人文科学(文学部)にはそれがなかなか見当たらないのである。もちろん文学部も、そうは言っても毎年必ず一定数の入学者を確保している。その理由は、多くの場合「英語」にある。英語を学ぶことは就職に直結するという理由で、まだ何とか多くの志望者を獲得できているのである。

しかし昨今企業が求めている「英語」は、ほとんどの場合「資格」である。つまり、英文学を原著で読める人よりも、資格の点数が高い人の方が評価されるのである。当然、学生の興味は資格対策になり、大学側も「ニーズ」にこたえるために「資格対策講座」を準備している。英文学の授業と資格対策講座の授業を見比べれば、どちらを一生懸命勉強しているか一目瞭然である。英語でさえこの有様なので、その他の外国語においてはもっと悲惨な状況にあると言えよう。

このように、人文学領域にまともに取り組む学生は、英語においてさえ非常に少なくなってきているのが現状である。学生の名誉のために付言しておくと、彼らは非常にまじめであり、少なくとも自分が学生だったころよりも本当に良く勉強している。しかし、それは単位が大事だからであって、学びの追求というところには程遠い。昔も単位のために勉強している学生がほとんどだったのは間違いないが、今は学問を追求する姿勢が薄れ、就職のための単位であり、就職のための勉強になっている。その良し悪しはともかくとして、少なくとも人文学の学問的専門性を備えた人材の輩出が非常に困難になっているのである。学部レベルで専門性のある授業を展開することが難しくなっているということも要因にあげられる。

そのような中、大学院に進学する学生はほとんどいない。専門的スキルを身につけていないし、人文学に対する情熱も育成されていない学生がほとんどであり、かつ就職ができないと思われている大学院に好んで進学する人はほとんどいないのが現状である。旧帝大であっても、在籍する院生が0のところも珍しくない。私大であればなおさらである。たまに在籍者がいたとしても、(本人にその意識がなくても)完全に趣味の延長で、自分の好き勝手に研究と呼べない研究をしている人も少なくない。確かに将来性のある院生もいるが、本当に少数だと言わざるを得ない。

以上を考えると、人文学の場合、①学問的専門性を備えた院生がいない(理系は「優秀な」人が少ないだけで、学問的専門性を備えていることが予想される)、②人文科学の発展に貢献するという意識をもった院生がいない(趣味の延長の場合が多い)、③カネがない(理系よりも文系の方が貧乏なのは昔からである)、という三重苦に苛まれている。

人文学はどのように必要か?

「どのように必要か?」とは可笑しな問の立て方だが、さしあたりこのままでいこう。人文学が今後必要とされるのであれば、どのような場面でどのようなニーズが考えられるか、というものである。

Google翻訳の精度がますます向上しているとはいえ、まだまだ実用のレベルに達していない。人工知能がボードゲームの戦いにおいて人間を凌駕しつつあるが、しかし人間を超える存在には程遠い。近年、確かに機械の能力が著しく向上しているが、人間には遠く及ばないままである。同様に、AIの発展も目覚ましく、将棋ではプロ棋士を破るまでに進化しているが、しかしほとんどすべての領域において人間を脅かす存在にはなっていない。この人間と機械の差を埋めるべく、科学者は努力を重ねているのである。

もし、機械が(良くも悪くも)人間を「超える」存在となるためには、人間を知らなければならない。つまり、機械自身が「人間とは何か?」を考えることができなければならない。すると人間に関する膨大なデータが必要になってくる。

翻訳に関しても、現在世界には千数百とも数千とも言われる言語が存在している。これらの中には今後消滅するものもあれば、今まさに誕生しつつある言語も含まれている。完全な自動翻訳を完成させようとすると、個別に言語データを収集・プログラムするよりも、むしろ「言語とは何か?」という問いを突き詰めた方が早いかもしれない。全言語に共通する何かを発見し、そこから演繹的に各言語に当てはめていくのである。

これらに対し、長い人文学の歴史の中で蓄積されてきた「知」が有効であることに異論はないだろう。文学は人間の生活様式や思考パターン、言語(地の文も会話文も)などを提供する有効なリソースとなりうる。各語学は個々の言語が現在の姿になるまでの過程を網羅し、言語学は言語そのものについて研究の蓄積がある。言語が生成消滅する過程について、社会言語学の見地も興味深い。

人文学の「知」は、長らく役に立たないと言われてきた。しかし、時代がようやく人文学に追いついたと言ったら言い過ぎだろうか。いずれにしても、人文学の研究成果が応用される範囲は確実に広くなってきつつある。このように考えると、未来の人文学は現在とは全く違う地位をもっているかもしれない。

これから研究者になる人へ

上述したことは夢物語でもなんでもなく、これから実際に人文学が辿る道だと確信している。しかし、現状の人文学のままでは確かにAI発展に貢献することは難しいかもしれない。なぜなら、研究者の意識が未来に向いていないからである。

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