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昭和の小学生、ネパールに行く(5)_Nepal in 1979 決死の深夜行軍

1979年、小学2年生の時に初めての海外旅行でネパールに母と行きました。


 ネパール旅行5日目。今日は1980年の元旦である。今はわからないが、ネパールはこの時は太陽暦ではなかったので、街中は特に普段と変わることはなかった。
 昨日何かに当たって寝込んでしまっていた大源太くんの具合もすっかり良くなった。
 今日はポカラからカトマンズに戻る日なのだが、朝からものすごい霧が立ち込めていて、とても予定していた飛行機は飛びそうもない。一部の人は、早々に見切りをつけて朝八時のバスでカトマンズに向かったとのことだ。
 ぼくたちは十一時の飛行機の予定だったため、とりあえず十時に空港に行ってみる。荷物を預けてボーディングカードをもらうまではすんなりできるのだが、その後が飛ぶんだか飛ばないんだか、とにかく乗るはずの飛行機が一向にやってこない。
 待っている時に外で太鼓の音が聞こえてきた。行ってみると、大道芸人だった。3歳くらいの子供が鶏の羽のついた袋にすっぽり入り、5歳くらいのお兄ちゃんの叩く太鼓に合わせて首を振っていた。
 その間に大人の男の人2人が、棒を2本立てて綱を張った。7、8歳くらいの女の子がバランスを取る棒を持って綱渡りをはじめた。下で太鼓でリズムをとりながら、大人が掛け声をかけると、女の子がヤー!とかアー!とか合いの手を入れながら渡っていく。輪っかに足を入れてくるくる回しながら渡ったり、膝の下にお盆を敷いて渡ったりした。
 その間にもう1人の大人が小さなお盆を持って見物人の間を回る。母は、持っていたパイサ(お金の小さい単位)の硬貨を全部出した。

綱渡りの少女

 待っても待っても飛行機が来そうもないので、一旦アンナプルナホテルに戻ってお昼を食べることにした。食べている途中、シェルパトレッキングサービスのアルジュンバズネが飛んできて(ここで唐突に知らない人の名前が母の日記に出てきたが、それまでのいきさつは不明)「ファーストフライトはキャンセルになった。セカンドフライトの予約をするからすぐ来てくれ」という。
 大急ぎで飛行場に行き、セカンドフライト(三時過ぎ)の搭乗券をもらう。天気もだんだん良くなってきた。
 三時に飛行場に来てくれというので、それまで飛行場の周りをぶらぶらして過ごす。ヒマラヤンホテルというホテルがあり、そこのお土産物売り場に行く。
 そこでぼくはアンモナイトの化石を見つけ、どうしても欲しいと言って買ってもらった。黒い石の上と下がぱかっと割れると、中からアンモナイトが出てくる化石だ。100ルピーを85ルピーにまけてもらったと日記に書いてある。
 この化石はずっとその後も持っていた。結婚しても持っていて、自分の息子が小さい頃恐竜が好きだったので、プレゼントした。
 散歩中、そこらで色々な石をひろって歩いた。白っぽくて、ところどころ銀色にキラキラ光る石。実はこの石も今でもちゃんと持っている。

ところどころきらきらと銀色に光る石、白く透き通ったような石

 この待ち時間にラジェンドラ・タクリと知り合いになる。と日記に書いてある。唐突にまた知らない人が出てきたが、どうもみんな飛行機が飛ばないのでひまを持て余していたらしい。ムクティナートの人で、ムスタン国王の甥にあたるそうだ。
 三時に飛行場に行く。すっかり晴れわたり、マチャプチャレやアンナプルナがよく見えた。アルジュンバスネが双眼鏡を持ってきてくれたそうだ。

 こんなに晴れたからさすがに飛行機は来るだろうとおもったのに、四時半頃、セカンドフライトもキャンセルになってしまった。キャンセルならキャンセルで早く言ってくれればいいのに、ただキャンセル待っただけでもうこんなに夕方じゃないか。母はアルジュンバズネに相談しに行ったが、今度は肝心な時にポカラの町に行ってしまって不在だった。

 飛行場に行き、母が仕方なく明日のフライトの手続きをしようとしていると、西洋人の若い女の子が声をかけてきた。これから友達とタクシーでカトマンズに帰るけど、一緒に行かないかというのだ。オーストラリア人の彼女は、「四時間でカトマンズまで行ける」という。
 ラジェンドラタクリがいたので、危険じゃないかしらと母が尋ねると、「運転手が酔っ払っていなければ大丈夫。オートバイで二時間で行ったことがある」という。

飛行機のやってこない飛行場
こんなに晴れてるのに

 ホテルでサンドイッチを作ってもらい、タクシーに乗る。ヒマラヤホテルの人がカタを送ってくれる。
(カタとは、スカーフくらいの布。チベットやネパールでは相手を祝福したい時などでカタを渡す習慣がある)
 夕焼けに美しく染まったマチャプチャレ、アンナプルナを眺めながら、タクシーは出発した。

 しかし、出発してすぐに、橋が壊れてしまった浅瀬の川に行き当たる。「橋が壊れてしまった川」って、きょうびそうそうお目にかからないが、ここでは日常なようで、車は迷いなくそのまま川に突っ込んでいく。ところが、あっけなくかなりシンプルに立ち往生してしまった。にっちもさっちも動かすことができない。すると、川で遊んでいたのか仕事をしていたのか、そこにいた子供たちがきてくれて、車を押してくれる。おかげで、なんとか川を渡りきることができた。
 ここまでのなんとなくのエピソードでもわかるように、基本的にネパール人は老若男女問わず親切である。ネパールを訪れた人で、同じように感じた人も多いんじゃないだろうか。もちろん「旅行者と商売もしたい」という人も多いけれど、それよりも純粋になんとかして役に立ってあげよう、楽しんでもらおうという人が多い印象だ。これはこの15年後訪れた時でもあまり変わらなかったので、なんというか、国民性なんだと思う。こういう国って、いわゆる幸福度が高いんじゃないかと思う。

 第一の関門を通過して、車はカラカラというエンジン音をたてながら、まずまずの調子で走り出した。もう日が落ちて辺りはだいぶ暗くなってきた。当然だが街灯などない未舗装の崖道を進んでいく。途中、何匹ものジャッカルが車のライトの前に見えた。目が光っていた。ジャッカル、という動物は、8歳のぼくも動物図鑑で見たことがあった。獰猛な動物だという。もし、今車が止まって道に放り出されたら、ジャッカルに食べられてしまうんだろうか。そう思うと身体の芯から怖かった。

 二時間ほど走って、小さな村に運転手と助手が食事をしに行った。しかしこの時ぼくがホテルで作ってもらったサンドイッチを食べた後ぐっすり眠ってしまっていて、母は身動きが取れず、食事もとらずにそのまま車の中にいたそうだ。

 ポカラを五時過ぎに出発したので、遅くとも十一時ごろにはカトマンズに着くと思っていたのだが、乗っている車はだいぶくたびれてしまっていて、大変なスローペース。でも崖道の片側は目もくらむような渓谷になっているので(満月でとても明るかった)、ビスターリ、ビスターリと言いながら走った。ビスターリとはネパール語でゆっくり、と言う意味である。

 ところが、十二時になっても一向にカトマンズに着きそうもない。そして午前一時、とうとう車がガス欠になって、山の真ん中で立ち往生してしまった。夜中に通る車はもうない。運転手と助手がガソリンを探しに出かけていく。
 今これは日記に書いてあることをかなりそのまま書いているが、いや、これほど絶望的な状況って人生の中でそうあるだろうか。今この人たちは女性と子供だけで、ジャッカルがうようよいる40年以上前の真っ暗なネパールの山中に放置されているのである。想像すると恐ろしい。ああ軽率にタクシーなんか乗るんじゃなかった、バイクで二時間てなんだったんだ、そもそもなんで飛行機来ないんだ、山賊でも現れて襲われて殺されてしまうんじゃないか、そんなことを考えていたに違いない。

 それから二時間。
 向こうから車のライトが見えてきた。オーストラリア人の女の子に停めるように言う。赤十字の車で、例の運転手と助手が乗っていた。
 私たちは赤十字の車に乗り換え、二、三十分ほどでやっとカトマンズのホテルブルースターに着いた。午前四時だった。

 まさに生還である。車のライトが見えてきた瞬間の映像はぼくも覚えている。なんとも決まりの悪そうな運転手さんの様子も、それに対してひたすらキリッとしてカッコよかった赤十字の人の様子も覚えている。子供心に、助かったぁ・・・と思った。赤十字の車に乗ってからの記憶はあまり覚えていないので、安心しちゃったか寝ちゃったんだと思う。
 そして、今思うと、運転手さんも、彼なりに必死で助けを探してくれたんだなぁ。。と思う。また、日記には「代金は3人で300ルピーしか払わなかった。ガス欠なんかおこして十一時間もかかったのだから(子供の分は払わない)」と書いてあるが、払うには払ったんだと思い、なんだか双方微笑ましいような、なんとも時代を感じるエピソードなような気がしている。


生還の地、ブルースター

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