最近の雑記(3月)

noteをはじめてしばらくたった(が記事は更新できてない)。文章を書く参考にしようという視点で、web記事を見るようになったのは思わぬ変化だった。そうこうしているうちに、いろいろ思うところが出てきたので、つらつら書いていく。


⒈内容がないよう

始める前から分かっていたことだが、改めて自分のコンテンツ力のなさを痛感する。そして、内容のない人間が無理矢理まとまった量の文章を書こうと思った時、書くことは、①「生活を切り売りするタイプの(普遍的な)体験談」②「オチのない雑感という名の自分語り」③「消費レビュー」の3つしかないことも。

道理で世の中にはおんなしような記事ばっかりあるわけだ。ちなみにこの記事は②にあたります。


⒉糸井重里風文体

TPOにふさわしいドレスコードがあるのと同様に、記事を書くにもふさわしい文体があるのでは、と考えて、note運営の記事なんかも研究してみた。それで書いてみたのが前回の文章(→「弱者の崖」とあのひととわたし)だ。

結論から言うと、この文体はわたしには似合わない。

今noteでトレンドの文体、わたしの研究によればこんなところだ。

①句読点は、おおめ。しゃべるときの息づかいを参考に、体言止めなんかも、適宜つかってゆく。
②改行は、こちらも、わりとひんぱんに。多くても、ひとつの段落につき3文まででおさめる。
③むやみやたらと、漢字をつかわず、むしろ意識的にひらがなをふやす。
   たとえば・一人称(私→わたし)
               ・形式的な名詞(時→とき)
               ・基本的な動詞(使う→つかう) など。

こうして出来あがるのは、いかにも消化によさげな優しげな文章である(わたしは上記のような文章の記述を「糸井重里風文体メソッド」と呼ぶ。ほぼ日っぽいから)。

要するにネット記事の可読性を高める、という戦略なのだろうけど、判で押したようにこんな文体ばかり使うのもいかがなものか。だいたい、「膨大なコンテンツの蓄積があり、キャッチーな表現において右に出るものはいないが、できるだけ炎上は避けたいまろやか保守エコおじさん」のための文体なのだから、何もねぇ荒野を耕しフロンティアを広げるところからはじめなくてはならない大部分の雑草物書きには、根本的に相容れないのではないかと思う。

だから、これからは敢えて文体にこだわることなく、書きやすいように書いてみようと思う。そうしているうちに自然としっくりくる文体が手に入るかもしれないし。
……おしゃんな運営を目指す人たちが、除草剤を持ってくる様が目に浮かぶが、そんときはそんときである。各自、強く生き延びてください。


⒊ありきたりな動機

オススメに上がっていた記事を見ると、noteをはじめた理由に「長い文章を書くことへの憧れ」を挙げている人が散見された。全く同じ動機でnoteを開設した身としては、親近感わくことこのうえない一方で、「あぁ、自分はどこまでいっても量産型なんだな」という一抹の寂しさもおぼえる。みんな同じこと考えてるんだね。

それとはまた別に、こうして雑感を書いていると、ときどきふと頭によぎる言葉がある。
「もっと簡潔な文章で、書き表せるのではないか……?」
たとえば140字で充分伝えられることを、わざわざ引き延ばして冗長にしているだけなのではないか、とどうしても感じてしまうのだ。

考えてみると、twitterの140字というのは、大発明だったのだ。400字詰め原稿用紙のように、ひとつの文章の単位としてだけでなく、思考の単位にもなっているように感じる。

結局話は①に戻るのだが、確固たる内容がないと茫洋な文章に終始してしまうので、気をつけましょう、とそういうことです。


⒋終わりに

ここまでいろいろ書いたけれども、最後に言いたいのは

「書き続けた奴だけが偉い」

ということだ。

飽き性の自分にどこまで続けられるかわからないが、やっていきましょう。
だらだらと、やれる範囲で。



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